こんにちは!日本語ネイティブ @kun_maa です。
タイ語を習うついでに、先日からタイ人のための日本語教室のボランティアにも首を突っ込んでいます。
[ま]日本人だからって日本語が教えられるわけではないという単純な事実 @kun_maa - [ま]ぷるんにー!(พรุ่งนี้)
今回は、前回僕が担当した方は欠席だったので、なんとなく僕が役立たずだったから来なくなっちゃたのかなあなどとちょっと落ち込みかけましたが、そこは明るいタイ人の生徒さんたちのおかげで、楽しくすごすことができました。
僕は、日本語を物心ついたときから使っているので、言葉の変化や使い方を「どうしてこうなるんだろう」とか考えることってないです。
普通そうですよね。たぶんそれが「母語」っていうものなんだと思います。
例えば、「食べる」という動詞の変化と「来る」という動詞の変化は異なります。
食べる → 食べて → 食べた → 食べます → 食べられる → 食べない
来る → 来て → 来た → 来ます → 来られる → 来ない
「食べる」は、その使い方で語尾が変化しても「たべ」の部分は変わりません。
でも、「来る」は、「き」になったり「こ」になったりします。
普段、僕らはこんな変化を特に考えることなく口にしたり書いたりしています。
だから、この違いがなぜなのか意識していないし、説明できません(少なくとも僕は)。
日本語の動詞が、その変化の仕方によってⅠ、Ⅱ、Ⅲの3類型に分類されていることを、僕は昨日、日本語のテキストを見て初めて知りました。
また、「言う」と「話す」の違いってなんでしょう?
ちゃんと説明できません。
「僕は日本人なので、日本語が話せます」と「僕は日本人だから、日本語が話せます」の「〜なので」と「〜だから」はどちらも理由を示していますが、このふたつの言い方の違いはなんでしょう?
やっぱり、説明できません。
これらはもちろん、勉強をすれば答えられるようになるのでしょう。
毎日、無意識に使っている日本語。
だから、たぶん勉強して整理しないと答えられないけど、その答えは自分の頭の中にあるはずです。
母語としての日本語を当たり前のものとせずに、客観視できるかどうか。
たぶんそれが日本語を外国語として教える、あるいは教えるために学ぶためには必要なことなのだと感じました。
そして、日本語を客観視できるようになったら、これはかなりおもしろいんじゃないかなって気がしています。
だって、日本語の当たり前が当たり前じゃなくなるってことは、日常生活そのものさえも客観視することにつながるってことです。
まあ、やり過ぎは疲れちゃうだろうけど、この日本語を客観視するって視点はいろいろ刺激的だと思っています。
外国語としての日本語。
なんかそう考えるだけでも、ちょっとワクワクしてきませんか?
最後までお読みいただきありがとうございます。
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