まだ小学校に上がる前の小さな子供の頃、僕にとって海とは夏に帰省する父親の田舎の海だった。
遠州灘に面した小さな集落から歩いていけるその浜辺には海水浴をする人もなくただただ広い砂浜と波の荒い大きな海だけが広がっていた。
その頃の僕は泳ぎを知らなかったしその海は潮の流れが速くて大人でも容易に流されてしまう怖い場所なのだと散々言い聞かされていた。
そんなわけであの海で泳いだ記憶は全くない上に海ってのは怖いのだという記憶の刷り込み効果で未だに海は危険って無意識に思っているから三つ子の魂百まで。
それでも幼い頃の記憶として鮮明に残っているのは草いきれに包まれた田舎道を抜けて防砂林の松林が夏の日差しに焼ける匂いを嗅ぎながらふうふうと登りきった砂丘の先に広がる海のきらめきと潮の香りでそれは今でも時々夢に出てくるほどだ。
海とはそういうものだと思っていた。
子供の頃の夏のある日両親が喧嘩をしていた。
何が原因だったのか何故そんなに激しく言い合いをしていたのか僕にはわからなかったけれどその喧嘩の後僕は父に連れられて初めて電車に乗って海に行った。
父と2人きりで遠出をしたのも初めてだった。
道中の記憶はほぼない。「おだきゅーせん」に乗った記憶がうっすらとあるだけだ。
現地に着いて父が海だと指差す方向には人だらけの砂浜とうねりのほとんどない水面に浮かぶ人の頭しか見えなかった。松林の匂いもなかった。
全体がまるで描き割りのように見えてこんなの海じゃないと思った。これは偽物の海だという思いしかなくその後どのように過ごしたのかも覚えていない。
ただただ両親の喧嘩と偽物の海だけが心に焼き付いた。
あれが本物の海で行き先は江ノ島だったのだとだいぶ後になって父から聞いた。
そんな海なんて知らなくてもよかった。幼い記憶の中にある田舎の怖い海だけでよかったのにと割と本気で思った。
あの田舎の海を未だに夢に見るように発熱すると偽物の海で息苦しさといいようのない不安に包まれるという夢を見てうなされることがある。
両親の喧嘩の理由は今でもわからない。