[ま]シュレディンガーの哲学する猫/僕には圧倒的に思考する言葉がたりない @kun_maa
有名な「シュレディンガーの猫」というのは、量子論の考え方に納得していなかった物理学者シュレディンガーが考えた思考実験のことだ。
その思考実験とは次のようなものである。
閉ざされた鉄の箱の中に猫が入っている。
その箱の中には毒ガス発生装置が一緒に入っていて、放射性物質に繋がっている。もし放射性物質が原子核崩壊を起こせば毒ガスが発生して箱の中の猫は死ぬ。原子核崩壊を起こさなければ毒ガスは発生せず猫は無事。
1時間後にこの放射性物質の原子核崩壊が起こる確率は50%であるとした場合、量子論の考え方にしたがえば箱のふたを開けて確認しない限り箱の中にいる猫は「生きている状態」と「死んでいる状態」が同時に絡み合って併存しているということになるというものだ。生きている状態と死んでいる状態が同時に存在するなんて、普通に考えたら明らかにおかしい。
本書にはそんな量子論への問題提起を行った思考実験に登場する「シュレディンガーの猫」が登場し、この猫に有名な哲学者が憑依する。
各章はそれぞれの哲学者たちの解説と、シュレディンガーの猫と主人公の物語という2部構成となっていて、とてもとっかかりやすい。
いわゆる掴みはOK!ってやつだ(かなり古いな...)。
本の中で取り上げられている哲学者たちはウィトゲンシュタイン、サルトル、ニーチェ、ソクラテス、レイチェル・カーソン、サン=テグジュペリ、ファイヤアーベント、廣松渉、フッサール、ハイデガー、小林秀雄、大森荘蔵というそうそうたる面々。
したがって、とっかかりやすいとはいっても簡単に理解することはできない。それとこれとは別問題だ。加えて解説部分についてもすべてを解説するつもりが著者にはないらしく、それがよけい理解を困難にしている。
一応科学哲学の入門書のようだが、どうやら著者の意図は単なる入門書として終わらせるつもりはないらしい。そこかしこに見え隠れする「理系と文系の融合」の大切さ。
どちらかだけでは正しくものを捉えることは不可能であり、特に偏った科学至上主義が招く弊害について、哲学をとっかかりとして読者に知らしめようとしているのではないだろうか。科学的でないものを切り捨てる不寛容さと、そうではない真の知性とはなにか。そんなことを伝えたかったのではないだろうか。
そう考えると、タイトルに「シュレディンガーの猫」と「哲学」を合わせている意味が、なんとなくわかるような気がしてくる。
それとともに本書で取り上げている哲学者の中に、レイチェル・カーソン、サン=テグジュペリ、ファイヤアーベントが入っている意味が見えてくる。
さらにもうひとつの重要なメッセージは「行動すること」。
これは実存主義の「アンガジュマン」の重要性であり、サルトルが遺した「百万人の飢えた子供たちにとって文学は何の意味があるか?」「夢をもたないで、自分にできることをする」という言葉にまさに託されている。
小難しく考えているだけが哲学ではないのだと。
ウィトゲンシュタインは言う。「私の言語の限界は、私の世界の限界を意味する」と。
僕が本書から読み取ったと思っているものは、僕の言語の限界によって規定されているに過ぎない。それが僕の世界の限界だ。
深く思考するするためには、あまりにも僕には言葉が足りない。それこそ圧倒的に足りない。もっと多くの言葉がなければ現状を突破することはできない。本書を理解することも、自分の思いを表現することもできない。
本書はそんなことをあらためて僕に思い知らせてくれた。
実におもしろい。
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