僕はこんなふうにブログを書いたりLINEで会話をしたりTwitterでつぶやいたりと文字を書くことで気持ちや考えを表現しようとすることが比較的多い。
仕事では面と向かってのコミュニケーションが圧倒的に多いけれど私生活では完全に文字派だ。特にこだわりがあって文字推しってわけではなく生活が自然にそうなってきただけなんだけどさ。
前にも何度か書いたことがあるけれど、僕は基本的に人間同士は本当にお互いが自己認識しているとおりにわかりあうことはできないんじゃないかって思っている。
お互いにそれぞれの解釈をして微妙に誤解しながらも概ねなんとなくうまくやっているっていうのが現実なんじゃないだろうか。
文字で自分の考えていることや気持ちを書き表そうとするときに、もちろん自分なりに相手に伝わるよう書いているつもりではいるんだけど、一言一句その言葉が相手にどんな思いを抱かせるかということまで想像力を働かせて書くことはない。
できることならそこまで考えて表現するべきなのかもしれないけれど、自分が書くもの全てについてそこまで考えていたらそれだけで疲れてしまって前に進めなくなる。
それと同時に誤解を恐れるあまり何も書くことができなくなってしまう。
だから親しい人であればあるほどそこは前後の文脈やこれまでの会話などを考慮して自分の本意をくみ取ってほしいと思ってしまう。それは自分勝手な甘えなのだろうか。
書いてしまった言葉は自分の元を離れて相手に届いた時点でその解釈は相手に委ねられることになる。その解釈が自分の本当に伝えたいことと大きな齟齬が生じないように自分なりに考えたつもりで書いてはいても文字だけで伝わる情報量は多くないし齟齬が生じる可能性は大きい。
もし大きな齟齬が生じたときに「そんなつもりではなかった」と言うことは醜い言い訳に過ぎないのだろうか。
相手に解釈を委ねざるを得ないことは文字のやり取りという手段を取る以上は必然である。相手に委ねた結果の解釈が自分が伝えようとしたこととは違っていることがわかって悲しくなったりさみしくなったりした時にその感情だけを相手に伝えることは自分の意図を汲み取ることを押し付けるだけの傲慢で自分勝手なことなのだろうか。
ここ数日そんなことをつらつらと考えながら僕はまだ自分なりの答えを出せずにいる。言葉を発することに今まで以上に真摯になりたいと思うのと同時に、コミュニケーションって伝える側の努力はもちろん必要だけど、受け手側の言葉を理解しようという努力も必要なんじゃないかとも感じている。
言葉が思い通りに伝わらないっていうコミュニケーション不全の状態は100%伝える側が悪いのではなく、受け手側にも問題があることは往々にしてあるんじゃなかろうか。そこにお互いの信頼や信用という要素が関わってくるんだろうし、そういう関係ができていない間柄ではなおのこと慎重に言葉を尽くす必要があるんだろうけれど。
少なくとも受け手側が理解しようという努力を怠ってうまくいくとは思えない。
僕はまだまだこれからも言葉で伝えるということについてもっと慎重に考えなくちゃいけないなって思っている。
それにしても気分の落ち込みはひどいもんだ。
無気力と虚無感に包まれて何もする気にならない。ようやくブログをこんな風につらつらとまとまりもなく書き綴ることができた。
僕には相手を思いやる心が欠けているのかもしれない。自己中心的で自分のことしか考えない冷たい人間なのかもしれない。自分の言葉が相手を傷つけるということに無自覚すぎたのかもしれない。そんなことばかりが頭を占領していてうなだれるばかりだ。
Twitterにも甘ったれたTweetを垂れ流してる。僕はあまりにも弱い。弱いから許してほしいと思っているわけではないけど。ただ弱すぎるんだよ。人間が薄っぺらい。
そして自分の主張こそが絶対の正義だというものこそ疑え。
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