[ま]言葉の力と依存と表現力と @kun_maa
言葉を信じて、信じた言葉に裏切られて、傷つけられてもうダメだと思ったところで、また別の言葉に助けられてその言葉に勇気付けられて立ち直る。
言葉を発するのが人間ならば言葉で僕を切りつけるのも人間だ。
言葉を交わしながら丁寧に積み重ねて人間関係を築いたつもりでいても、いきなり登りかけの梯子を外してどん底に叩き落すのが人間の発する言葉の仕打ちなら、叩き落とされてボロボロになった僕を拾い上げて再び立ち上がらせてくれるのも人の言葉。
ひとりには慣れているけど、ひとりで再び立ち上がるには多くの時間が必要だったと思う。それなのに自然に僕に向けられた言葉が僕の傷を癒してくれた。言葉に切りつけられた傷を癒すのも言葉の力。
心が触れ合って確かに理解されているという感覚が生まれた。そしてそれは今も続く。人を傷つけるのが言葉ならば人を生かすのも言葉......久しぶりにそんなことを実感している。
また人を信じてみようとごく自然に思わせてくれた言葉の数々とそれらの言葉に囲まれた人間関係に身を委ねて自分のこともまた信じてもらえているという安心感。
もし裏切られたって構わないやという爪楊枝ほどの強がりと、そんなことあるわけないよという過度な期待を抱えながら、交わされる言葉の渦の中に僕は嬉々として自ら飛び込みそのあまりの心地よさに微睡む。
言葉が根源的にもつ複数の意味から生じる誤解性とそれぞれの人間が有するバイアスを経てもなお分かり合えているという感覚。共同幻想かもしれない繋がりに僕の自我は溶け込んで、ひとつになる快感から逃れられなくなっていく。
自我なんてものも所詮は幻想ではないのかと心の奥で疑いながら、自我なんてものがあると思うから辛いんだよと毒づきながら、それでもやはり人と言葉を信じているのだ。
言葉の力を信じたいのだ。それが言葉への依存だとしても。
言いたいことを言葉にした途端に色褪せてしまう表現力の無さに愕然としながらも。
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