[ま]僕の孤独感を埋めるのは @kun_maa
僕はひとりでいることがあまり苦にならないのだが、それでも時々ドーン!と押し寄せてきた高波に飲み込まれて揉みくちゃにされるかのような孤独感に翻弄されて心を押しつぶされそうになる。
孤独感に襲われるときは周囲に全く人がいない物理的に孤独なときもあれば、大勢の人たちと過ごしている一見孤独とは見えない状況のときもある。
必ずしもひとりでいることが孤独感を生み出すわけではないのだ。
むしろ大勢の人が周りにいても、話題や価値観が合わなくて自分だけが浮いているように感じる気持ちを源泉とした孤独感の方が物理的な孤独感の何倍もつらい。
孤独は人によって感じる形が違うのではないかと思う。「思う」と書いたのは他者の心の有り様を本当に知る術はなく、想像してみるしか方法がないからだ。
いつも明るく振舞っていて孤独なんてものとは無縁のように思える人にもきっと孤独感はある。僕の感じる孤独とは形が違うかもしれないけれど。
さらに僕自身の孤独感さえいつも同じ形とは限らないところがめんどくさい。
Twitter や Facebook などの SNS で緩くつながることで一時的に埋めることができる孤独感もあれば、直接的な接触を伴う他者の存在でしか埋められない孤独もある。
自分の中ですらその時々で感じる孤独に濃淡があるように、おそらく人それぞれ感じる孤独はみんな形が違うだろう。僕の感じる孤独はあなたの感じる孤独とはきっと違う。
孤独を紛らわすための代償行為として飲酒、仕事、買い物、ギャンブル、ドラッグ、奔放な性遍歴などに奔ったとしても結局は本当に孤独を埋めることなんてできなくて、さらなる孤独感や絶望を伴った虚無感に襲われるばかり。
他者から受け入れられていると感じる認容意識や自分の存在を認めてもらいたいという承認欲求を膨らませて孤独感の解消を求めても、他人に価値観を依存した孤独解消のための手段はいずれ他者を欺き自分を偽り虚しさばかりが募って破綻するのではないか。
それでも僕は僕の孤独感を埋めてくれるのは結局「他者」でしかないのではないかと感じている。自己肯定感で孤独を満たすにはあまりも僕の内面は貧素だ。
僕の孤独感を埋めてくれる他者とは誰でもいい「顔なしの他者」ではなく特定の人に他ならない。
しかし偽りのない僕自身をありのまま認めてくれる、こんな僕でもいいんだよって思ってくれるような、丸ごと僕自身を肯定して認めてくれる人に出逢うことはとても難しい。ほとんどの人はそういう誰かに出逢うために出逢いと別れを繰り返しながら出逢うことができずに一生を終えるのかもしれない。もし、そんな人に出逢えたら奇跡なのではないだろうか。ネガティブだ。
だから全てを理解してくれなくてもいい、孤独を全て埋めてくれなくてもかまわないから、そのままの僕に寄り添いながらその一部でもわかって受け入れてくれる人がいると思えたら、それだけでも僕は底なしの孤独感にとらわれても抜け出すことができるのではないかと思う。
それがきみなら僕はどんなに幸せだろうと思っている。現実はいつも難しいけどさ。
だから僕は孤独感の波に飲まれて今日もひとりビアバーに逃げ道を探したり膝を抱えて部屋に引きこもったりしているんだよ。
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