昨日は、次男の中学校の卒業式でした。
僕自身は、小学校も中学校も、ましてや高校や大学の卒業式になんぞに親が来た記憶が全くないのですが、今どきの保護者のみなさんは出席されるのが普通のようなので、無駄に不憫な思いをさせるのもかわいそうかと思い、これでもちょこちょこと節目の行事には出席しています。
自分はどう見られても構わないんだけど、子どものことになると周囲に流されやすい男なのです。ははは...。
卒業式自体は、厳かな雰囲気の中で無事に進行し、とてもよい雰囲気のすばらしい式だったと思います。奇声を発っしたり茶髪にしたりといったやんちゃなガキもいないし、保護者も一応ルールに従って行動をしていたし。
こういう式で僕が最も嫌いないわゆる「来賓の方々」の挨拶は、ほとんどの方が用意してきた原稿の朗読で、形だけのクソつまらないものだというお約束どおりでやっぱりうんざりでしたけどね。
そういうくだらない挨拶が多い中で、ひときわ輝いていたのが校長先生のご挨拶です。
ペーパーを全く用意せず、ずっと顔を上げて生徒たちの方を見て、よどみなく間違えることもなく、生き生きと卒業していく生徒たちとの思い出を語る姿にはちょっと感動しました。
ところが、最後に卒業生に対する「餞(はなむけ)の言葉」として、2つ挙げられたのですが、これがそれまでの生徒たちとの実際のふれあいから生まれた真の言葉の数々に対して、あまりにも陳腐でがっかりしました。
なんで取ってつけたようにあんな言葉を贈るのかなあって残念に思うくらい。
それは、僕らが子どもの頃とまったく変わっていない常套句であり、それが人畜無害な言葉なら毒にも薬にもならないからどうでもいいのですが、そうではないところが余計始末が悪いんですよね。
①人生に無駄な努力などない
人生にはやらなければよかったという無駄な努力なんてない。努力すれば必ず報われる。夢や目標に向けて努力することで夢や目標をきっと叶えることができる。もし、仮に叶わなかったとしても、努力したことは必ず何かの役にたつ。
要旨はだいたいこんな感じでした。僕らが子どもの頃からよく言われ続けた言葉です。
多くの人はもうわかっていると思うけど、努力すれば必ず夢や目標が叶うなんて嘘です。
本気でそんなことを言うのは、夢や目標を叶えられた人たちだけでしょ。その陰で、多くの夢破れた人たちがいるはず。そして、この言い分が恐いのは夢や目標が叶わなかった人たちは、努力が足りなかったからだっていう方向に話の主旨が進むことです。
夢が叶わなかった人たちは本当に努力が足りないという理由だけで夢が叶わなかったのでしょうか?僕はそうではないと思います。
そもそも夢や目標がその人の能力と釣り合っていなかった、或いはぶっちゃけその人の持つ才能には向いていなかったということがほとんどなのではないでしょうか?
統計的に裏付ける資料などを知らないので、あくまでも僕の感覚ですけど。
だけど、努力すれば必ず夢は叶う、必ず報われると刷り込むことで、自分が成功しないのは努力が足りないからだと、無駄に自分を責める人を作り出している可能性に目を向けるべきではないでしょうか。いったい、いつまでこんな「努力万能論」がまかり通るのだろうかと憂鬱な気持ちになります。
無駄な努力はないと言っても、もしその叶わない夢にかけた努力の時間を、本来その人が持っている才能に対する努力として使っていたら...と考えれば、無駄な努力は存在するって考えるのは不自然ではないと思うのですが。
バカのひとつ覚えみたいに「人生に無駄な努力などない」「努力すれば夢は叶う」って念仏唱えている場合じゃないでしょ。
努力が無駄にならないための前提条件(自分の才能や向き不向きの見極めなど)や、自分の才能を無視した努力をしても叶わないことの方が世の中には多いんだってことを教えるのが教育なんじゃないのかなって思うんです。こんな僕は悲観的すぎますか?
誤解のないように付け加えると、僕は決して努力全てを否定しているわけではありません。自分が何に向いているのか、どんな才能があるのかはある程度努力した先にしか見えないものだと思うからです。そのための努力は惜しむべきじゃない。ただ闇雲な努力万能論はまちがいなく有害だと思うし、大嫌いだというだけのことです。
②過去は変えられないが、未来は自分の力でいくらでも変えられる
過去を変えることは誰にもできないけれど、これから先の未来は君たちの努力次第で、いくらでも変えることができる。
これも聞き飽きた陳腐な言葉ですね。そして、やっぱり顔を出す「努力万能論」。
過去は変えられないのは当然として、未来は本当に自分の力で思ったように変えられるのでしょうか?僕はそうは思いません。
努力万能論や夢や希望を持つだけで未来が思いどおりになるなんて考えているとしたら、ホントおめでたい人だなあって思います。
そこでは、自分ではどうしようもない不確定要素の大きさが全く考慮されていないし、未来に向けて具体的にどのような方法で、自分の望むとおりにしていくのかという方法論が全く抜け落ちているからです。
これでは単なる精神論でしかなく、「気合だ!気合だ!」と叫ぶのとなんら変わりません。そんな言葉を、義務教育の最後の餞の言葉として贈ることになんの意味がありましょうや。それこそ、夢を見させるだけの無責任極まりない昔ながらの幻想話でしかありません。
本当に未来を自分の望むとおりにしたいと考えているのなら、運や他人の行動など自分の努力や才能だけではどうにもならないものの存在の大きさを教え、未来を見つづけるのではなく、「今」を生きることの大切さを教えたほうが余程マシかと思います。未来を変えたければ今を変えるしかないのだと。
[ま]刹那主義と人生や幸せについて僕が思うこと @kun_maa - [ま]ぷるんにー!(พรุ่งนี้)
そんなわけで、中学校の校長先生が卒業生のために話された事柄の8割方は素晴らしかったけど、余計な常套句を餞の言葉に使われてしまったがために、僕がモヤモヤした気分で満たされてしまったというお話でした。
あれ?ちょっと違うか。
でもね、ホントに嫌いなんですよ。いわゆる「努力万能論」ってやつがね。
あなたが望みどおりの人生をおくれないのは努力が足りないからだ。
あなたの夢が叶わないのは努力が足りないからだ。
あなたが病気になったのは努力が足りないからだ。
あなたが自殺するのは努力が足りないからだ。
あなたが不幸せなのは努力が足りないからだ。
あなたが失業したのは努力が足りないからだ。
あなたが結婚できないのは努力が足りないからだ。
あなたが離婚したのは努力が足りないからだ。
あなたが貧乏なのは努力が足りないからだ。etc.etc.etc.......
ああ、もううんざりだ。いいかげん努力万能論をみんなで撲滅しませんか?
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