僕は基本的に「刹那主義」で生きています。刹那主義LOVEです。
「刹那主義」というと、一般的にはあまりいい印象を持たれないようで、どちらかというと「今さえよければ後はどうなってもいい」って意味合いが強く、無責任、無計画、自堕落といった考え方のように思われがちです。
でも、本来の「刹那主義」ってそういうものではないと思うんですよね。
僕がそれを実践できているかどうかは別にして、本来の「刹那主義」とは「今、この瞬間を精一杯生きる」ってことだと思うんです。これは、元々の仏教的にもたぶん正しい。
その精一杯生きる「瞬間(=刹那)」の積み重ねが人生だと思うわけです。
既に過ぎ去った過去や、これから訪れる未来を思い煩ったところで仕方がないということは周知の事実。
それらは自分の意志や努力だけで変えられるものではないし、すべてのことを自分でコントロールできない以上、いわゆる「幸せ」なんてものは、今だけに注目する「刹那」の積み重ねでしか得ることはできないはずです。
過去は絶対に変えられないし、未来だって確実に自分の思いどおりにはならないのですから。
今を精一杯生きること、つまり「刹那主義」で生きることで人は「幸せ」を手にすることができます。たぶん。
それは例えば、
今飲んでいる水がとても美味しい → 幸せだ!
走り終わった今、感じているこの心地いい疲労感 → 幸せだ!
頬に感じる風が気持ちいい → 幸せだ!
目の前で大好きな人が微笑んでいる → 幸せだ!
今まさに口の中に広がる肉汁 → 幸せだ!
などなど本当に小さなものです。
そんな小さな「幸せだ!」を感じる感性を磨き、感じた幸せを積み上げていくことこそが人生であり、「幸せ」ってことなんだと思います。
だから何も特別なことはしなくても、「幸せ」は目の前に存在するものであり、ただそれを瞬間瞬間で感じることができるかどうかの差が、人を「幸せ」にも「不幸」にもするのではないでしょうか。
僕は、そんなふうに人生や幸せをとらえているので、人生の長期的な目標を定めることに意義を感じないし、人生に意味を求めることにも懐疑的です。
だから、人生に対して「それは人生の無駄遣いだ」とか、「何事も成し得ないような人生はクソだ」といった考え方、「今の気に入らない人生を劇的に変える」といった煽り文句のようなものには全く興味がないし、そういう考え方にはどうしても抵抗を感じます。
僕がそういう考え方を受け入れられないというだけで、別にそういう考え方の人を否定するつもりはありません。僕はそういう考え方はできないというだけの話。
僕にとっては人生とは、ただこの瞬間、瞬間を生きるだけ。そこには意味もクソ(下品でしたね)もないです。
できればその瞬間(=刹那)から、「幸せ」を感じたいので、「刹那」を大切に精一杯生きるだけです。そうやって行き着いた先がどこであろうと、それが僕の人生。
今日も僕は、好きな人にためらうことなく好きだと告げ、目の前に愛しい人がいれば抱きしめ、その人に自分の一番の笑顔を向けて、その人のためにできることを精一杯するだけです。
そして、頬をなでる微風に喜んだり、雑踏の片隅に咲く花を愛でたり、食べたいものを食べられることにむふふと笑ったり。
そして、その中に小さな「幸せ」を感じて積み上げていくだけ。
そんなふうに生きていければ本望です。
まだまだ未熟なので、頭では「刹那主義」を唱えても、心は千々に乱れてそう簡単には刹那を生きることができずにいるのが今の僕です。
「刹那主義」を基本路線に、今日も刹那を丁寧に生きて積み重ねていきます。
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