[ま]ぷるんにー!(พรุ่งนี้)

ぷるんにー(พรุ่งนี้)とはタイ語で「明日」。好きなタイやタイ料理、本や映画、ラーメン・つけ麺、お菓子のレビュー、スターバックスやタリーズなどのカフェネタからモレスキンやほぼ日手帳、アプリ紹介など書いています。明日はきっといいことある。

[ま]ゼロからトースターを作ってみた結果/やってることも文体も掛け値なしでおもしろい @kun_maa

タイトルの通り全くのゼロから、つまり原材料からトースターを作ってみたというクレイジーな体験が軽妙でユーモアあふれる文章で綴られている。

最初にタイトルを見たときは「は??マジで?」って思ったものだが読みはじめたらもう止まらない。本当におもしろい本だ。

ゼロからトースターを作ってみた結果 (新潮文庫)

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結果的にどんなものが出来上がったのかは本の表紙を見れば一目瞭然。お世辞にもトースターと呼べるような代物ではない。

こんな不気味なものを作り上げるのにかかったコストは日本円で約15万円。店で同様のものを購入すればわずか500円である。どう考えても明らかに高すぎるコストだ。

 

しかしそうやってコストをかけながら、試行錯誤を繰り返しながら、そして時にはちょびっとズルをしながらトースターを作り上げる過程こそに価値があるのだ。

何の気なしに普段使っている電化製品の動く仕組みや原材料、生産工程や製造にかかるコストなどを気にする人は僕も含めてあまりいないだろう。

便利なものが安く手に入ればそれでいいとさえ思っている。大量生産・大量消費の世の中だ。それが物心ついた時から自分を取り巻く世界なのだから。

そんな我々の常識を根本的に疑うことにつながっていくのが、本書で著者が原材料を苦労して手に入れ加工していく過程とその行動の中で彼が感じた数々の困難と疑問点なのだ。鉄鉱石から試行錯誤の末に鋼鉄を精錬したり、ジャガイモのデンプンからバイオプラスチックを作ろうと苦悩してみたり、ミネラルウオーターから銅を抽出しようと鉱山の水を大量に自力で持ち帰ったりと、そんな肉体労働と柔軟な発想と苦労の末に作ったトースターから見えてきたものに僕らは自分たちを取り巻く大量消費社会の問題点を突きつけられることになる。

 

原材料からトースターを作り上げたってだけでもすごいことなのに(完成品は当初の計画とは大幅に違ってしまったけれど)、それだけで終わらないところが本書のおもしろさに深みを加えている。

ひとつのドキュメンタリー作品としておもしろいのはもちろんの事、見た目の悪い手作りトースターから現代社会の在り方に対して巡らす著者の思索は、日常に溢れる様々な工業製品に対する読者の見方を変えてしまう力を秘めているのだ。

 

軽快で読みやすい訳文もおもしろさに拍車をかけて、一気読み確実な素晴らしい本である。これを読まないなんて人生をちょっと損してるって思ってもらってもいい。 

ゼロからトースターを作ってみた結果 (新潮文庫)

ゼロからトースターを作ってみた結果 (新潮文庫)

 
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[ま]降りてくる思考法/スピリチュアルではなく地道に無意識の力を活用してみる @kun_maa

「本が好き!」からの献本。

タイトルだけを見るとかなりスピリチュアル系なイメージを読者に与えるんじゃないかと心配してしまうが、実はいたって真面目で地道な思考法の本だった。

降りてくる思考法

 

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サブタイトルの「世界一クレイジーでクリエイティブな問題解決スキル」ってのはちょっと大げさだなあとは思うけどさ。

 

イデアが「降りてくる」といっても、何もせずにただボーッとしていれば自然に素晴らしいアイデアが空から降るように思いつくはずがない。

本書の主張の肝は、地道に考えて考えて考え抜いた末に、休んだ脳のもたらす無意識の力を利用しようというところにあるのだ。

このような思考法自体は、もちろんスピリチュアルなものでもクレイジーなものでもない。思考法のテクニックとしてもこれまで様々な著作で取り上げられてきたものであり、特段目新しさは感じられなかった。いわゆる既視感のある内容なのだ。

 

それでは本書は読む価値がないのか。いや、そうではない。

本書の利用価値はタイトルでうたっている「思考法」の部分ではなく、著者が体験的に学び実践してきた「脳を狭く小さく使うため」の具体的な方法や、徹底的に考えるための下準備に必要となる基礎の部分について述べているところにあるのだ。

加えてその価値は、考えが行き詰まった時の対処方法や情報の収集・整理法など地味だけど問題解決の基本となる数々のスキルについてのアドバイスにもある。

そういう意味では本書のタイトルのつけ方には少々疑問を抱かざるを得ないが、仕事や趣味の世界でしっかりと自分の頭で考えて問題に立ち向かうための手引書として読むことにその利用価値があるといえる。

 

平易な言葉使いと自分でもできそうに思えてくる内容の適度な煽り方を考慮すれば、思考法の本というよりも自己啓発本として分類した方がいいかもしれない。

いずれにしても書いてあることを地道に実践しながら、自分の頭を使ってしっかりと考え抜くことなしには優れたアイデアも降りてきてはくれないのは確かだ。

どちらかというとあまり本を読まないような人向けの本なのかもしれない。 

降りてくる思考法

降りてくる思考法

 
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[ま]世にも奇妙な人体実験の歴史/好奇心に駆られたマッドサイエンティストたちの軌跡 @kun_maa

科学の進歩のためには、どこかのある時点で誰かが命をかけなければ先に進むことはできないというポイントがあるのだろう。

本書はそんな命をかけなければならないポイントで、自らの命をかけて「自己実験」を成し遂げてきた多くの科学者、医師、軍人たちの物語である。

世にも奇妙な人体実験の歴史 (文春文庫)

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タイトルにある「人体実験」という言葉は生々しい。ともすればナチスの行った人体実験や日本軍の731部隊などを思い出す人も多いかもしれない。

しかし、本書が主役として取り上げる人体実験とはこれらの非人道的な人体実験とは似て非なるものだ。

自分の研究のために他人を犠牲にすることをためらわない非道な輩が行った人体実験ではなく(そういう実験についても批判的に一部取り上げてはいるけれど)、その真逆とも言えるような自らを人体実験の「材料」として使った者たちによる実験の数々である(中には自分だけではなく、家族や弟子を巻き込んでいる人たちもいるけど・・まあそれは身内だから多めに見よう)。

本書の「はじめに」では次のように彼らを紹介している。

科学の名の下に、彼らはコレラ菌入りの水や塩酸、その他口に出して語るのもはばかられるようなもの(これから、それらについて詳しく語ろうと思っているのだが)を飲み込んできたのである。

どうして彼らはそんなことをすることになったのだろう。これは、利他精神と虚栄心、勇気と好奇心の奇妙な物語である。そしてもちろん、愚行の物語でもある。(P.9〜10)

ここで取り上げられている実験者たちの行動は凄まじい。

淋病と梅毒が単に進行段階が異なるだけで同じ病原菌からなるいう自らの仮説を実証するために自分のペニスに傷をつけて淋病患者の膿をそこに塗り付けた外科医。 

住血吸虫の感染源を確定するために、感染者から採取した住血吸虫の成虫を飲み込み続けた医師。

コレラは細菌感染による病気ではないという自説を証明するためにコレラ菌を飲み干した老医師。

黄熱病の伝染経路を明らかにするために患者の吐き出す黒い吐瀉物を飲んだ医学生

ピロリ菌が十二指腸潰瘍や胃潰瘍の発生に関係していることを検証するためにピロリ菌の培養液を飲み込んだ微生物学者。

特発性血小板減少性紫斑病や白血病の原因を探るために患者の血液を自らに輸血した医師たち。

自分の身体を使って、心臓まで届くカテーテルを開発した医師。

水中爆発の人体へのダメージのあり方を研究するために自ら何度も水中爆発を体験した生理学者。彼は潜水艦から潜水具なしで深海を浮上する技術のためにも命をかけている。

ビタミンC不足と傷の治癒力の関係を明らかにするために自ら死にかけるほどの食事制限による実験を行った研修医や、7ヶ月もの食事制限により意図的に葉酸欠乏状態になって自らの仮説を証明した血液疾患研究者。

本物の毒ガスを使って効果的なガスマスクを作るために親子で肺をボロボロにしてまで取り組んだ生理学者たち。

巨大な気球で成層圏に到達し、酸欠で死にかけた又は死んでしまった科学者たち。

これらは、本書に載っている「マッド・サイエンティスト」たちのほんの一部だ。

 

え?マジで?と思うような話や、読んでいるだけで吐き気をもよおすような話のすべてが実話である。

彼らの勇敢な自己犠牲の上に成り立った実験の成果がどれほどの恩恵を人類にもたらしたのか、その貢献度は計り知れない。

しかも一部の有名な者を除いて、ほとんどの者が一般的には名も知られていないという歴史に埋もれた悲しき存在。

 

それでも彼らを危険な実験に駆り立てたのは、人類の進歩のための使命感というよりも恐ろしいほどの好奇心にこそあるのだなってことが本書を読んでいるとよくわかる。

いわゆる使命感だけじゃこんな恐ろしいことやってらんないって。

好きでワクワクするから、危険なことだとわかっていても自らを抑えられずに自分の身体を使ってこんな恐ろしいことやあんな危ないことやウゲッって気持ち悪いことに飛び込んで行けるんだよなあと思う。

 

本書は人間の好奇心ってマジですごいぞって思わせてくれる「特攻人体実験野郎」たちの軌跡の本である。

タイトルはかなり「トンデモ本」っぽいけど決してそんな類いの本ではない。

登場人物たちはかなりイっちゃってるけどね。

好奇心に駆られたマッドサイエンティストたちが繰り広げる驚きの世界を垣間見ることができるおもしろい本であることは間違いない。 

 
世にも奇妙な人体実験の歴史

世にも奇妙な人体実験の歴史

 
人間はどこまで耐えられるのか (河出文庫)

人間はどこまで耐えられるのか (河出文庫)

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[ま]マインドフルネス瞑想を本格的に再開します/居眠り状態を乗り越えて @kun_maa

一時期は完全に習慣化できたと思ったマインドフルネス瞑想も、クラフトビールにハマって瞑想をする習慣が崩壊してからというもの、たまに試みても居眠りばかり。

これではダメだと気合を入れ直して再開を試みるも酒量が増えていく一方の生活では続くはずもなく挫折。 

kun-maa.hateblo.jp

断糖ダイエットと禁酒生活をがっつりとやった2月に瞑想も再開するつもりだったのですが、不器用なので二兎を追うことができずダイエットの方に集中することにしたためにさらに瞑想から遠ざかる生活が続きました。

 

ところがここ最近、仕事のことや人間関係などで悩むことが多く鬱々とした日々を過ごしていましてブログも書ける気がしないという精神状態。

こんな時こそ瞑想を復活させなくていつやるの!今でしょ!(古いな...)

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追い込まれると割と本気を出すタイプなのでウダウダと考えずに実践!実践!

久しぶりに座蒲(ざふ)を押入れから引っ張り出して、早速マインドフルネス瞑想に突入です。 

kun-maa.hateblo.jp

 

ところが悲しいかな、ずっと瞑想から遠ざかっていた僕の心はまったく止まるところを知らず彷徨いまくった挙句に気がつくと居眠りを繰り返すという情けなさ。

それでも懲りずに何度も瞑想を繰り返していますが、やはり一朝一夕で身につくはずもなく、僕のマインドは瞑想という海原に漕ぎ出しては居眠りで沈没という余計に不安材料が増えている状態で停滞しています。

 

でもたとえうまくいかなくても毎日繰り返していればきっと以前のように心がマインドフルネスな状態になる端緒を掴むことができるはず。

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そのためにはブログで宣言してしまった方がいいよねってことでようやくMacに向かって文字を入力することができました。まあ、以前にもブログで瞑想を再開する宣言したくせに挫折してるんだけどね。

まだ今日も気がつくと居眠りという状況に変わりはありませんが、なんとなく昨日よりはマシのような気がします。気がするだけかもしれないけどさ。それでも続けることが大事。使い古された言葉だけど「継続は力なり」です。

 

ダイエットも朝ランもなんだかんだで追い込まれたらがっつりと取り組めたので、今回も「なんだかやれそうな気がする〜♪」(って古すぎてわかんないだろ)。

グダグダと駄文を連ねてないで、いいからお前さっさと瞑想しろよ!って思ったでしょ。僕もそう思います。 

この本が僕の瞑想の一番の教科書。

~1日10分で自分を浄化する方法~マインドフルネス瞑想入門

~1日10分で自分を浄化する方法~マインドフルネス瞑想入門

 
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[ま]左遷されて心が折れたけど気分を入れ替えてやっていこう @kun_maa

春先は多くの会社で大幅な人事異動のシーズン。

僕も今年は他の部署への異動が決まった。新しい仕事自体は決して窓際的だとか懲罰や左遷人事の対象となるような仕事ではない。

その方面でのキャリアを積んでいく上では貴重な体験となる仕事だ。

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しかし僕にとっては今更その仕事をやらされるのか...と思わざるをえないこれまでの経歴からいえば明らかに格下の仕事。どう考えても左遷だ。

人事が何を考えて僕にその仕事をやらせるつもりなのか、人事担当者からも現在の上司からも何の説明もないので知る術もないが、現在の職位も長くなったので年齢や経歴から、もしかしたらそろそろ昇任するのではないかという淡い期待を心に抱いていただけに心が折れた。

 

昨夜はヤケ酒気味にクラフトビールを飲み歩いたが、飲んでも飲んでも酔うことはできず、ビアバーの店員さんやお店で偶然知り合った人との普通の会話に少しだけ心が癒されたものの落ち込んだ気分は今も引きずっている。

 

これは憶測でしかないが、やはりうつ病治療が続いていることが要因にあるのではないかと思っている。それほど忙しくはない現在の職場で4年間勤務している間にうつが寛解していればまた違った方向に進めたのかもしれない。

通常であれば2年サイクル程度で異動させられる現在の職場に、温情人事で4年間置いてくれたにもかかわらず、その間にうつ病を治せなかったことで格上の重要な仕事を任せることはできないと判断されたのだろう。

 

ここのところしばらくは調子も良くて気分の落ち込みなど仕事に影響が出るような状態はなかったのだが、それでも投薬量が変わらない現状に少しずつ焦りを感じていたことは確かだ。

それでも本当に辛かった時に救ってくれた主治医の判断なので信じて通院している。治ったという判断を得られないのだからまだまだ問題があるのだろう。

自分でもそう思うのだから人事担当部署が不安に感じても仕方がない。

 

それでも同期の連中がどんどん偉くなっていくのを横目に自分だけが左遷されるのか...という気持ちは否めず、自分の感情を誤魔化しきれない。

やはり一度精神的に潰れた者は余程のことがなければ組織で上に行くのは難しいのかも知れないな...などと僻み根性丸出しで嫉妬心の塊のように鬱々とした気分に囚われたりもしている。

 

おそらくこの気持ちはそう簡単には消えないだろう。自分の中の嫌らしい部分をまざまざと見せつけられて、自分ってつくづく醜い奴だなとは思うのだけれど。

たとえ職位が上がらなくても、異動先の仕事が自分の今後のキャリア上プラスになるとは思えなくても、それでもこの組織の中でやっていこうと決めたのだから泣き言ばかり言っていないで気分を入れ替えてしっかりと働こうと思う。

もちろん病気の治療にもしっかりと取り組もう。

 

この人事で僕の会社組織での先が見えてしまったことは否定できない事実。それはそれでかなり辛いのだがその事実を受け止めた上で無理な背伸びはせず、目の前の仕事にしっかりと取り組み、健康に気をつけてやっていこう。

時々は昨夜みたいに劣等感と悔しさに囚われダークサイドに堕ちることもあるだろうけど、それでも負けずにやっていこうと今このエントリを書きながら少しずつ気持ちが整理できてきた。

 

もやもやと暗黒面に落ちて呪いの言葉を吐いているよりも、書き出すことで気持ちの整理がつくことも多い。これぞブログセラピーの力。 

左遷論 - 組織の論理、個人の心理 (中公新書)

左遷論 - 組織の論理、個人の心理 (中公新書)

 
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[ま]同僚が死んだけれど悲しくない僕は @kun_maa

同僚が死んだ。

正確に言うと以前は僕と同格の職位にあったのだが、病気で体が不自由になったため以前のように仕事ができなくなり、降格して僕の部下になっていた人だ。

年齢は僕よりも数歳上。

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もう4年近く同じ職場で働いてきたが、病気の再発で今年になってずっと入院していたのだ。それまでも何度か入退院を繰り返してきたのだが、奇跡的な回復ぶりを見せて職場に復帰してきた彼は今度ばかりはもう職場に戻ってくることはなかった。

 

健康な頃と変わらずにプライドだけはすごく高い彼と実際にほとんど戦力とならない彼の仕事ぶりのギャップ。

僕と彼は仕事のやり方や職場での勤務態度をめぐって度々ぶつかった。

以前はともかく、僕の部下となった以上は仕事の指示に従ってもらわなければ他の部下にも示しがつかない。

また、彼のだらしない勤務態度に対して他の部下からの苦情が僕のところにはしばしば上がってきていた。

そのため時には厳しい言葉を吐いて注意しなければならなかった僕に対して、彼は常に年下のくせに生意気だという応じかたをしてきた。それは時には威嚇するような言動で、また時には慇懃無礼な物言いで。

 

健康面での同情の余地を差し引いたとしてもやはり僕はそんな彼のことが嫌いだったし、使えないお荷物を押し付けられたように感じてもいた。

 

だから彼の家族から訃報がもたらされても僕はまったく悲しくなかった。

正直、ホッとした気持ちまであったのだ。自分でもひどいと思うけど。

 

それでも訃報の社内への周知や死亡に伴う様々な手続き、葬儀への参加や手伝いなどやらなければならないことは沢山あった。

同僚(部下)とはいえ仕事で一緒に苦労した覚えもないし、一方的に迷惑をかけられ通したような気分だけでまったく悼む気持ちはわかない。でもそれを態度に出すことはさすがに憚れた。それは単に自分が周囲によく見られたいから、冷たい人間だと思われたくないからという自分勝手な理由によるものに過ぎなかったのだけれど。

 

葬儀は死者のためではなく生者のためにあるものとはよく言われることだ。

本来の意味合いとはちょっと違うけれど僕にとって彼の葬儀も自分のために参加するようなものだ。

同僚が死んだというのにまったく悲しくない僕は表面的に沈痛な面持ちを装って葬儀に参列する。

そこには彼を悼む気持ちはさらさらなく、彼との諍いの数々にけじめをつけて禊を済ますために必要な儀式のようなものだという思いと、職場の人間から悪く思われたくないという保身の気持ちだけがあるのだ。

この偽善者め......

葬儀の最中にそんな声が聞こえたような気がしてハッと顔を上げると祭壇の上から見下ろす彼の笑顔の写真と目が合った。

 

彼が亡くなった途端に誰からも彼のそれまでの不評はまったく聞こえてこなくなったし、皆が悲しそうな顔で悔やみの言葉を口にしている。彼の態度に文句を言っていた者も彼を飼い殺しのように僕の部署に押し付けて知らんぷりを決め込んでいた人たちも皆神妙な面持ちだ。偽善者は果たして僕だけなのか。

葬儀自体が茶番劇のように思えて少しだけ彼に同情の気持ちが芽生えた。 

葬式は、要らない (幻冬舎新書)

葬式は、要らない (幻冬舎新書)

 
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