同僚が死んだ。
正確に言うと以前は僕と同格の職位にあったのだが、病気で体が不自由になったため以前のように仕事ができなくなり、降格して僕の部下になっていた人だ。
年齢は僕よりも数歳上。
もう4年近く同じ職場で働いてきたが、病気の再発で今年になってずっと入院していたのだ。それまでも何度か入退院を繰り返してきたのだが、奇跡的な回復ぶりを見せて職場に復帰してきた彼は今度ばかりはもう職場に戻ってくることはなかった。
健康な頃と変わらずにプライドだけはすごく高い彼と実際にほとんど戦力とならない彼の仕事ぶりのギャップ。
僕と彼は仕事のやり方や職場での勤務態度をめぐって度々ぶつかった。
以前はともかく、僕の部下となった以上は仕事の指示に従ってもらわなければ他の部下にも示しがつかない。
また、彼のだらしない勤務態度に対して他の部下からの苦情が僕のところにはしばしば上がってきていた。
そのため時には厳しい言葉を吐いて注意しなければならなかった僕に対して、彼は常に年下のくせに生意気だという応じかたをしてきた。それは時には威嚇するような言動で、また時には慇懃無礼な物言いで。
健康面での同情の余地を差し引いたとしてもやはり僕はそんな彼のことが嫌いだったし、使えないお荷物を押し付けられたように感じてもいた。
だから彼の家族から訃報がもたらされても僕はまったく悲しくなかった。
正直、ホッとした気持ちまであったのだ。自分でもひどいと思うけど。
それでも訃報の社内への周知や死亡に伴う様々な手続き、葬儀への参加や手伝いなどやらなければならないことは沢山あった。
同僚(部下)とはいえ仕事で一緒に苦労した覚えもないし、一方的に迷惑をかけられ通したような気分だけでまったく悼む気持ちはわかない。でもそれを態度に出すことはさすがに憚れた。それは単に自分が周囲によく見られたいから、冷たい人間だと思われたくないからという自分勝手な理由によるものに過ぎなかったのだけれど。
葬儀は死者のためではなく生者のためにあるものとはよく言われることだ。
本来の意味合いとはちょっと違うけれど僕にとって彼の葬儀も自分のために参加するようなものだ。
同僚が死んだというのにまったく悲しくない僕は表面的に沈痛な面持ちを装って葬儀に参列する。
そこには彼を悼む気持ちはさらさらなく、彼との諍いの数々にけじめをつけて禊を済ますために必要な儀式のようなものだという思いと、職場の人間から悪く思われたくないという保身の気持ちだけがあるのだ。
この偽善者め......
葬儀の最中にそんな声が聞こえたような気がしてハッと顔を上げると祭壇の上から見下ろす彼の笑顔の写真と目が合った。
彼が亡くなった途端に誰からも彼のそれまでの不評はまったく聞こえてこなくなったし、皆が悲しそうな顔で悔やみの言葉を口にしている。彼の態度に文句を言っていた者も彼を飼い殺しのように僕の部署に押し付けて知らんぷりを決め込んでいた人たちも皆神妙な面持ちだ。偽善者は果たして僕だけなのか。
葬儀自体が茶番劇のように思えて少しだけ彼に同情の気持ちが芽生えた。
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