もうずいぶん前のこと。僕はタイの東北部にあるムクダハンという町を訪れていた。
メコン川沿いの町で対岸にはラオスのサワンナケートが見える国境の町だ。
タイだけではなく中国やラオス、ベトナムなどメコン川を流通している雑貨や衣類なんかを取り扱っているインドシナマーケットと呼ばれる市場があったりベトナム料理の屋台が目立ったりしていかにも国境の町という雰囲気をまといながらも嫌な騒々しさのない静かな町だった。
夜には路上でナイトマーケットも開かれていて多くの屋台が並ぶ通りをうろうろしていればたくさんの料理と出会うことができ食べることには事欠かない。
バスでのんびりとメコン川沿いを北上していた僕はこの町の空気が気に入って3日間ほど滞在することにした。
ムクダハンの数ある屋台の中で最初に彼女の屋台に出会ったのは単なる偶然だったのだろうか。それとも僕のそれまでの選択の結果だったのか。
今となっては考えても無駄なことだけど。
その屋台はそれほど目立つところにあったわけでもなくその時の僕はホーイトートというタイ風の貝のお好み焼きが無性に食べたかっただけだったんだ。
朝からのバス移動と日中の暑さで疲れていた僕は少しぐったりしながら屋台の前の路上に並べられた席に座り込みビールとホーイトートを注文した。
その屋台を取り仕切っていたのは少しインド系の血が流れているような雰囲気のエキゾチックさと猫のようないたずらっぽさを宿した瞳のかわいらしい女性だった。
一瞬見とれてしまったせいで、もごもごと拙いタイ語で注文する僕に対して優しい笑顔でハキハキと応対する彼女の姿がとても眩しかった。
僕はひと目で彼女のことが好きになっていたし、彼女も得体の知れない外国人である僕に対して警戒することもなく何かと話しかけてくれたり世話を焼いてくれたりとても優しくしてくれた。
すっかり彼女に魅せられた僕は翌日の夜もその屋台で夕飯を食べ、彼女が一生懸命働く姿をぼんやりと眺めながらビールを飲んだ。屋台が暇な時は僕の座っているテーブルに彼女が来て横に座りタイ語やラオス語を教えてくれたり他愛のない話をしたりして一緒に過ごした。
彼女の名前はダーオ。タイ語で「星」という意味だ。
当時の僕よりも5歳年下で結婚しており10歳の子供がいる。屋台の片付けを手伝っていた女の子は彼女の子供だった。
旦那さんはいないのかと尋ねるとどこかで酔っ払っていると少しうんざりしたような顔でそれでもすぐに微笑みながら答えていた。
僕は自分のことを下手くそなタイ語を使って必死で説明しながら、アップにした彼女の髪の後れ毛が夜風にそよぐのを見てきれいだなって思っていた。
その翌日ムクダハンで過ごす最後の夜も僕は迷わず彼女の屋台へと向かった。
気軽に彼女に話しかけながら注文すると彼女の表情が少し硬い気がした。
路上の席についてビールを飲みながらホーイトートやパッタイを食べながら彼女の手が空いて話ができるのを待っていた。一歩間違えばストーカーだ。
彼女が料理を他の席に運び終えて僕の横を通った時に軽く話しかけると彼女もいつもの笑顔で応えてくれた。
そんなことを何回か繰り返した頃、背後から誰かの視線を感じた。
振り向くと僕よりも少し年上に見える痩せたタイ人の男が僕のことをじっと睨んでいた。彼のテーブルの上にはタイの焼酎であるラオカオの瓶。酔っ払っているようだ。
あまりにもこちらを睨みつけているように感じたので彼女が僕のそばに来た時にさりげなく聞いてみた。僕の後ろでさっきからこっちを見ている男は誰?と。
それは彼女の夫だった。僕と彼女が話していると彼がふらっと立ち上がってこちらに近づいてきた。
アルコール臭い息で僕に向かってタイ語で何か言った後、彼女に対して強い調子でやはり何かを言い放ちそのまま彼女が肩にかけているポーチをひったくるようにして取り上げその中から現金を抜き取るとポーチを彼女に投げつけるようにして返して歩き去ろうとした。
すかさず文句を言いながら男を追いかける彼女のことを突き飛ばしてそのまま男は去っていった。
僕はといえば何が起こったのかもすぐには理解できず転んだ彼女に手を貸すのが精一杯。彼女のために何もすることができなかった。とんだチキン野郎だ。
彼女の話では男は仕事をせず彼女が働いた金で毎日飲んだくれているようだった。
心配かけてごめんねと謝る彼女に対して何の助けにもなれずかけるべきタイ語も思いつかない僕は自分の無力さにあきれて途方に暮れていた。
その日はもう楽しく話す雰囲気ではなくなってしまったし、男の僕に対する嫉妬も心配だから早く帰るようにと彼女に言われるまま僕はすごすごと安宿に戻った。本当に惨めだった。
僕に優しく接してくれて楽しそうにしている彼女の上辺に見とれていただけの僕は彼女の抱える現実の厳しさを何も知らず、知ったところで何ひとつ解決することのできない無力で通りすがりの旅人でしかなかった。
翌朝、町を出るバスの出発前にバスターミナルの近くの市場で揚げパンと甘いコーヒーの朝食を食べようとした。僕の名前を呼ぶ声がして横を見たらそこに彼女がいた。
もうダーオには会えないと思っていた僕は本当に驚いた。
彼女は初めて会ったあの屋台で夕方から夜遅くまで働き、朝は早くから豆乳を売る屋台で働いていたのだ。彼女とはいろんな話をしたのに僕はそんなことも知らなかった。
僕に言えば朝も彼女の屋台を僕が使うだろうことはわかっていただろうにダーオは一言もそんな話をしなかったんだ。
これからバスで次の町に行くのだと告げる僕に彼女は僕が大好きだった微笑みを浮かべながら気をつけてね、元気でね、ありがとうって言ってくれた。
昨夜安宿の硬いベッドに寝転がりながら彼女をこの町から連れ出して逃げ出せないだろうかなんて相変わらず現実の見えないバカげた考えにとらわれていた僕は彼女の微笑みを見て目が覚めたんだ。
彼女は僕にそんなことを望んでいないってことを。
仮に彼女が望んだとしても僕にはその後の彼女の人生に責任を持つ覚悟も力もないってことを。
僕は目の前にある現実を見ようともせずただフラフラと漂うだけの無力で甘ったれの旅人だった。
自分の人生と向き合うことも避けてしっかりと足元を踏みしめる勇気もないくせに他人の人生に介入する資格なんてあるはずもない無能な男だったんだ。
あれから僕はムクダハンを訪れていない。
数年前にムクダハンまでバスであと2時間というところまで行ったことがある。それでもムクダハンを訪れる気にならなかったのはあの頃の自分と何も変わらず成長していない自分に向き合うのが怖かったからなのかもしれない。
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