[ま]真冬の袋田の滝で氷瀑に散る!? @kun_maa
「クゥイン!」右手のピッケルが確実に氷を捉えた音が心地よく響く。
左右の手に握られたピッケルとアイスハンマーに体重をかけて、12本歯のアイゼンが固定されている足を移動して氷瀑に蹴り込む。
手足のうち動かすのは常に1つだけという基本を忠実に守りながら、僕は初めてのアイスクライミングを楽しんでいた。
頭上からはすでに氷瀑を登り終え、ザイルで僕を確保してくれている先輩の声がする。一息ついて頭だけを後ろに向けると、展望台から氷瀑見物をしている人たちの姿が見える。
ちょっと誇らしげな気分で左手のアイスハンマーを凍った滝に叩き込む。
「ガチン!」弾き返されるアイスハンマーの切っ先。しびれる左手。
しっかりと氷を捉えることができないと、音と手に伝わる振動ですぐにわかる。
見物人に気を取られて集中力を欠いたか。
初めてのアイスクライミングで、他人の視線を気にしている余裕などあるはずもないのに自分でも呆れたものだ。舐めてると痛い目にあう。
深呼吸をひとつして、あらためて左手のアイスハンマーを振り下ろす。
「クゥイン!」今度は決まった。
「クゥイン!」「ザクッ!」「ザクッ!」「クゥイン!」「ザクッ!」「ザクッ!」
両手両足に神経を集中し、リズミカルにそして慎重に氷瀑を登っていく。
氷の状態は良く、集中してさえいればおもしろいようにピッケルもアイゼンも、がっちりと氷を捉えてくれる。
薄曇りの空の下、黙々と単純作業をこなすように、僕は確実に高度を上げて滝の上を目指して登っていく。
下から見てちょっと難しいかなと思った場所も、難なくこなすことができた。
「クゥイン!」「ザクッ!」「ザクッ!」「クゥイン!」「ザクッ!」「ザクッ!」
もう失敗することもほとんど無い。
氷瀑を登り詰めて、先輩の姿が見えた。ほっと一息つく瞬間だ。
そして先輩の方に向かって最後の斜面を歩き出す。
滝の上も一面氷に覆われている。全てが氷の世界だ。
ほとんど傾斜もなくなったところで僕はザイルを外した。
先輩の方に向かって笑顔で近寄ろうとしたその瞬間、自分の左足のアイゼンで右脚のスパッツを引っ掛けて僕はぶざまに転んだ。
慌てて僕の手をつかもうと伸ばす先輩の右手をすり抜けて、僕の体はたった今登り終わった滝を滑り落ちていった。
死の間際のテッパン表現に「思い出が走馬灯のように...」というものがあるが、まさに僕の頭の中に走馬灯のように滑り落ちる自分と滝壺で大きく弾み、血だるまになっている自分が浮かんだ。
他にも彼女のことや両親のこと、子供の頃の思い出やらなんやら本当にいろんなことが頭の中を駆け巡りながら、僕は何度も滑落停止姿勢をとってピッケルの刃に全体重をかけ氷に突き刺して止まろうとしていた。
ほんの数秒間のことなのだが、もう時間の感覚なんてなかった。
それはすごく長くも一瞬のことにも思えた。
何度も滑落停止に失敗し、「ああ、こんなところで死ぬんだな」って諦めた。
「ごめん、俺死ぬ」って思った。
袋田の滝に散る!なんて他人事のようなことまで考えながら、頭の中は真っ赤に染まった氷瀑と砕けた僕の死体で埋め尽くされた。
両脚が空中に飛び出した瞬間、僕の目の前にザイルの束が飛んできた。
夢中でその束を握りしめて全力でザイルにしがみついた。
僕の体は、両脚を滝の落ち口にぶらぶら浮かせながら止まった。
ザイルの束の先には、青ざめた先輩が確保姿勢をとってがっちりと僕の体重を受け止めていた。
こうして、先輩の機転のおかげで僕は氷瀑に散ることなく帰還した。
先輩にはめちゃくちゃ怒られたけど。
もう30年前の2月の袋田の滝でのことである。
日々いろんなことをどんどん忘れていくのに、死にかけた思い出と本当に愛した人のことだけはいつまでも色あせることなく忘れない。
記憶って本当に不思議だなあって思う。
あの時の絶望感も、走馬灯のように駆け巡った頭の中のことも、ピッケルの感触も、しがみついたザイルの感触も全てが総天然色のまま昨日のことのように覚えている。
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