[ま]「五分後の世界」村上 龍(ネタバレなし)/無駄を削ぎ落としたリアルな描写で物語に引き込まれる傑作 @kun_maa
1994年3月刊行の作品なので、書かれてから既に 21年もの歳月を経ているが描かれている内容は全く古びていない。
舞台となるのは 1945年8月15日以降も無条件降伏をせず、現在もアメリカを中心とした国連軍とゲリラ戦を戦い続けている日本。
そこは我々の住む世界とは、時間が5分間だけずれているパラレルワールドである。
「五分後の世界」の日本は、8月6日に広島、9日に長崎に原子爆弾が投下されただけではなく、19日に小倉、26日に新潟、9月11日には舞鶴にも原子爆弾が投下されている。
このうち小倉と新潟は、日本が降伏しなかった場合にアメリカが原子爆弾を追加で投下する計画に実際に上がっていた都市である。
さらに、本土決戦やその後の日本を戦場としたアメリカとソ連の戦争や中国とアメリカとの戦争、各地でのゲリラ戦を通して、日本人はわずか26万人まで減少してしまい、地下に張りめぐらせた大規模なトンネル内都市で生活をしている。
そんな日本に突然放り込まれた主人公「小田桐」。なぜ彼が「五分後の世界」に行ってしまったのかは誰にもわからない。
作品はいきなり行軍中の場面から始まる。
気が付くと小田桐は人間一人がやっと通れるような森の中の狭いケモノ道をフラフラしながら歩いていた。夢から覚めたばかりのような、あるいは夜中に一度目覚めて再びそれまで見ていた夢の中に入り込んだようなそういう気分だった。道はぬかるんでいてスニーカーはグチャグチャに汚れ泥水が足に染み込んできた。ひどく寒い。
小田桐に状況がわからない以上、小田桐の視点を通してしかあちらの世界のことを知ることのできない読み手にも何が起こっているのか知る由も無い。
そんな異常な状況にもかかわらず、ストーリー展開のテンポの良さと、余計な言葉を削ぎ落とし無駄な表現を排した鋭利な描写によってあっという間に物語の世界に引きずり込まれていく。
何がどうなっているのかわからないから、読み手としても直後に何が起こるのか予想もつかない。まるで自分の身がそのような状況に置かれたかのような緊迫感が、言い方は変だがとても心地いい。
無駄を排した描写の鋭利さは、作品中でも圧倒的に多い戦闘シーンで最大限に活かされている。
既に小田桐に感情はなかった。何も考えられなかった。ただ両腕で顔と頭を被い全身で腹部をガードするようにからだを折り、土砂の中に少しでも深く潜ろうともがいて自分でも意味不明のことを叫んでいた。何か叫んでいないと気を失いそうだった。髪の毛の燃える音と匂いがして両手で髪を狂ったようにはたいたが、それは穴に吹きとばされてきた誰かの上半身が燃えているのだった。炎が土砂をえぐりとる音、人間の上半身が燃える音や大小のうめき声、目の裏側で点滅と収縮を繰り返す光、粘土細工の人形のようになって燃える人間の匂い、全身を被って息もできないほどの熱風、口や鼻の穴や耳や目に土砂をはじき入れてくる地面の震動、ありとあらゆるものが生きのびようとする意志そのものを嘲笑するかのように感覚を揺さぶり続けた。
現代の平和な日本社会から、いきなり理不尽な戦場へと放り込まれた小田桐の適応ぶりは尋常ではない。
普通の生活をしていた人間であればまず耐えられないだろう。自分に置き換えて考えれば明らかだ。
そのあたりに不自然さを感じさせないように、小田桐は次のような人物であることが冒頭で明かされているが、それにしても彼の適応力は群を抜いている。
小田桐は、十四歳の時、続柄でいえば叔父にあたる育ての親をスパナで半殺しにして以来、殺人と強姦を除く様々な犯罪で生きのびてきた。組織に入ったことはなかったが組織を利用したことは何度もある。
小田桐以前にも何度かこちらからあちらの世界に行ってしまった人間はいるが、いずれもわけのわからないことを言って射殺されているという。
この物語を通して、小田桐は次第に変貌していく。
こちらからあちらの世界へと、五分後の世界に馴染んでいくのである。
先の大戦で莫大な犠牲を払い、今なお戦い続けている日本人が手にした価値観は「生きのびていくこと」。しかも、どの国の助けも借りず、どの国にも降伏せず、どの国にも媚びず、どの国の文化も真似ずにである。
そして、そのような日本人の勇気とプライドを世界中が理解できる方法と言語と表現で発信していくことを実現しようとしている。それはゲリラの輸出であったり、先進的な技術であったり、素晴らしい芸術であったり。
日本人だけが住むアンダーグラウンドには差別もないという。
日本の良き伝統が生き残り、礼節とプライドを持った理想像のような日本人。
別の見方をすれば、その日本的な精神にそぐわないものはすべて外部へと押しやることで理想郷をかろうじて維持しているかのようにも見える「五分後の世界」の日本。
それは移民・混血問題であったり、退化した人類のようなものであったり、一般の日本人の生活からは直接見えないところで常に行われている戦争であったり。
小田桐は五分後の世界の日本人の在り方に共鳴しつつも、より陰惨を極める本物の戦闘に巻き込まれていく。
そしてどこか他人事だった戦争が、現実感を持った自身の戦闘として繰り広げられる中でさらに変わっていく小田桐。どのように変わっていくのかはここでは述べない。
ぜひ作品を読んでほしい。
あり得たかもしれない五分後の世界に存在する日本や日本人の姿、圧倒的な生々しい戦争描写の中に何を見るかは、きっと人それぞれだろう。
ある意味では理想的な日本人の姿や、悲惨な戦闘シーンを描いているからといって、戦争・軍国主義礼賛あるいは、逆に平和至上主義といった単純な物語ではない。
五分後の世界に何を見るにしても、物語の世界観にどっぷりと引き込まれて、読後もしばらくは抜け出せなくなる。そんなすごい作品。
著者自らが最高傑作であると語るだけのことはある。
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