[ま]ゆかいな仏教/「ふしぎなキリスト教」の2人が対談形式で仏教に迫る「ゆかいな」一冊 @kun_maa
僕たち日本人は仏教を「知っている」はずだ。
仏教が日本に伝わったのは六世紀中頃と言われている。それから1500年もの時間が経過して、いろんな宗派があるとはいえ、仏教ほど日本に定着した宗教はないのではないだろうか。だから、当然仏教を「知っている」はずだ。
でも、僕たちが知っているいわゆる「葬式仏教」とは異なる元々の仏教や、その本義について知っている人は稀なのではないだろうか。それどころか、そんなことには興味すら持っていないというのが実情だろう。
僕はタイが好きでよく訪れているが、タイの仏教はまた日本とは違う面をたくさん見せてくれる。
なんていうか、簡単に言うと日本とは違って日常生活のなかにタイ式の仏教が浸透している感覚である。日常生活で普通にお寺にお詣りやお布施をするし、お寺に学校があったり、セーフティーネットの役割をお寺が果たしていたりする。
同じ仏教とは言い難いほどの違いを感じるのが、タイと日本の仏教である。タイの仏教はタイ人の生活に根付いて、さまざまな智慧や救いを彼らにもたらしているように思える。
翻って、日本の仏教はどうか。本書では次のように述べられている。
それならば、先に述べたような多くの困難に直面している日本人に対して、仏教は、何か決定的なヒントや洞察を提供してきただろうか。たとえば、三月十一日の津波と原発事故によって言葉を失った日本人に、仏教は、困難を乗り越えるための手がかりになることを示唆してきただろうか。残念ながら、そうとは言いがたい。仏教は、ほとんど関心がないかのようにふるまっている(ように見える)。なぜなのだろうか。どうして仏教は、何の反応も示さないのか。仏教が無能なはずはない。仏教には、二千五百年分の認識と実践の蓄積があるのだ。
そこで、仏教が我々に何にも語りかけてこないならば、こちらから尋ねてみようという意図から企画されたのが本書だという。
対談形式で仏教について討議していくのは、「ふしぎなキリスト教」で一躍有名になった橋爪大三郎氏と大澤真幸氏の二人だ。
仏教に対して問いかけるという意図ならば、仏教界の重鎮(誰だか知らんけど)でも呼んで、さまざまな質問をぶつけてみればいいとは思ったが、いろんな宗派がありすぎてなかなか難しいのかもしれない。
この対談は、「ふしぎなキリスト教」のときと同じく大澤氏の方から質問し、橋爪氏が答えるという役割分担で概ね進んでいく。
一応形の上では、門外漢の大澤氏が仏教の外部にいるものとして仏教に問いかけるということなのだが、応答する橋爪氏にしても仏教の専門家ではなく、二人とも社会学者である。でも、それがかえってよかったのではないかと読んでいて感じた。
もしかしたら、専門家からしたらその解釈は誤りではないか?といった意見もあるのかもしれない。しかし、完全な専門家ではない二人がそれぞれ一神教や西洋哲学との比較なども用いながら、それぞれの見解をぶつけ合う様子はとてもわかりやすく、これまでなんとなくモヤモヤと仏教に対して感じていた部分を理解するためのヒントを与えられたような気がする。
仏教の本質や、その精神世界、仏教の持つ類まれなる合理性の端緒を示してくれているおもしろい本である。
それにしても、知れば知るほど、本来の仏教とは宗教というよりも哲学なのだなあと思わされる。
そんな仏教の持つ合理性や考え方を生活の中で活かしていくことは、こういう時代だからこそ意味のあることなのではないかと考えさせられる。
タイトルどおりに「ゆかいな」本であった。
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