[ま]映画「父、帰る」/父親の存在意義ってなんだろう... @kun_maa
家を出てから12年ぶりに帰ってきた父親と、とまどいながらも父と過ごす2人の息子との数日間の物語。
突然帰ってきた父は今まで何をしていたかも語らず、久しぶりに会うというのに親子らしい会話も無いままに翌日から、2人の息子を連れて車で旅に出る。
多くを語らず横暴にも思える父の言動に従順に従う長男のアンドレイと反発する次男のイワン。
なぜ突然帰ってきて旅に連れ出すのかも知らされず旅の途中で用事ができたと言い、その用事が何かも語られることなく2人の息子を連れて行く寡黙だが厳格な父。
その態度は2人の息子たちに何かを伝えようとしているようにも思えるのだけど、何しろ言葉が足りずに息子たちの気持ちを不安に駆り立て、そんな父への不信感や反発へとつながっていく。
父が帰ってきたことをどこか喜んでいる兄に対して、父に反発し今まで父がいなくてもうまくやってきていたのに何故今更帰ってきたんだと父に対して叫ぶ弟。
12年間の溝を埋めようという気持ちはあるのだけれど思ったように上手くいかず、それでも男として生きていくことの厳しさを性急に息子たちに伝えようとしているような不器用な父。
丁寧に描かれる兄弟愛と、厳しい言葉や態度に見え隠れする父親の息子たちへの愛情。
それらが交錯し、衝突するとき物語は突然終幕をむかえる。
最後まで父親が12年間なにをしていたのか息子たちも我々も知ることはできない。
秘密を解く鍵と思われたある箱が開けられることもない。
父が息子たちに何を伝えたいと思っていたのか知ることもできない。
多くの謎を観る者に残しながらも、実はそんなことはこの作品にとってさして重要なことではないことに気がつく。
父の思いは既に息子たちに伝わっていたのだから。
父とはなんとも不思議な存在である。
我々は父から生まれてくるわけではなく、母に対するほどの依存的な気持ちも抱かない。
まるで一番身近な他人だ。
父の存在意義とはいったいなんだろう。
金を稼いで家族を食わせていく?そんな哀しい言葉は聞きたくない。
父の存在意義は自分の生きた証として子供に何かを伝えることだけなのかもしれない。
自分は子供たちに今までにいったい何を伝えられたのだろうか。これからでも遅くはないだろうか。
そんなことをふと考えさせられる。
とても静かな時間が流れる地味だけど秀逸な作品である。
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[ま]利他と利己/利他性が絶対的に善であるということへの違和感 @kun_maa
自分のためではなく他人のために何かを為すこと。たとえ自分を犠牲にしても他人のために何かを為すことは絶対的な善であると信じて疑わない空気。
利他的な行動は完全に善い行いであり、他人のことを差し置いて自分のために行動する利己的で自己中心的な振る舞いは常に悪であるという考え方には違和感しか感じない。
もちろん利他的な行為は不必要なものであり、即ち利他性は悪であるなどと戯けたことを言いたいわけではない。
困っている人や弱いものを守り協力しあうことは人間が社会的な生き物である以上、共同生活を営む上で必要不可欠なものであると思っているし、そのような行動が全くない殺伐とした世紀末的風景を見たいわけでもない。
しかし利他的であるということを絶対的な善であるとして、それこそが価値ある行動であると当然のごとく決めつけられることが嫌なのだ。
利他的であることだけがあたかも道徳的で倫理的に優れたことであり、利己的であることが不道徳で不倫であると否定し抑圧するような空気がたまらなく息苦しい。
人間なんて基本的に利己的なものであり、まず自分ありきという姿こそが自然なものなのではないだろうか。極論すれば、自分さえよければそれでいいいのだってのが自然な考え方じゃないか。その上で、余裕があれば他人のために行動するというのが本来の姿だと思うんだ。
誰だって自分が一番大事なはずだと思うのだけど、そこに利他性に対する絶対的な善という価値基準を持ち込んでしまうから大事な部分が逆転してしまうのだ。自分以外の他人や環境や物事が自分よりも大事だなんて生き物として不自然だ。
自分のことばかり考えるのは悪い生き方で、他人のことを考えることだけが正しい生き方であり、利己的で自己中心的な生き方を「悪」と断罪してしまう思考はやっぱり気持ち悪い。利他性こそが正義であると疑問も持たずに言い切れる不寛容さの思考停止。
利他性を強要されるなんて馬鹿げた悪夢としか思えない。
衣食足りて礼節を知るっていい言葉もあるじゃないか。
まずは自分だよ。自分が自分のためにいいと思うことを為せばいい。
利他的であれという同調圧力に屈することなく、利他的であることが絶対的な善であるなんていう呪縛から逃れよう。
自分自身を一番大切にしなくてどうして真に利他的な行動をとることができようか。
利他と利己のふたつに貼られた善悪という価値基準のラベルに振り回されるのではなく、本当の意味で自分以外のために何かを為すことができるのは自分に余裕がある人だけ。
こんな出来事も利他的であるための利己性について考えるきっかけになった。
まだ同じところをグルグルと回っているだけで考えがまとまらないのだが、とりあえず最近つらつらと考えていることを書き出してみた。言葉が足りない。
利他的な行為を否定するつもりはないが、利他的であることが絶対的な善であると決めつけることが正しいとは思えない。利己的であることは絶対的に悪であると否定するのはやはり何かが違うような気がする。
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[ま]メガガンジャの祝日限定メニュー「チンジャオメガロースー麺」を喰らう @kun_maa
世間はゴールデンウィーク!僕は暦通りなので今日明日はしっかりとお仕事です。
断糖ダイエッターとしては決して足を踏み入れてはいけない炭水化物の殿堂メガガンジャに行ってきました。目当ては祝日限定メニュー。
2017年4月29日昭和の日の限定メニューは「チンジャオメガロースー麺」でした。
明日4/29祝日限定
— メガガンジャ (@MEGAGANJA) 2017年4月28日
チンジャオメガロース麺です。
豪快にかき混ぜて食べてください!(◎_◎;)
お待ちしております(^○^) pic.twitter.com/AXnk1oek9x
前日クラフトビールを飲みすぎたので食欲がイマイチだったのですが、限定メニューという言葉の響きにとっても弱い僕は気がつけばメガガンジャの店の前に立っていました。あれ?テレポーテーションか。いや夢遊病。いやいやこれも夢なんじゃないの?
まあ普通に考えてこれが夢であるわけもなく、僕は僕の意思のもとにメガガンジャの券売機の前に立って食券をポチッとしているわけでいい加減変な言い訳はやめろと自分を叱っておきました。限定メニューの時にはおなじみの手書きの貼り紙が愛おしい。
ちょうど満席だったので食券を買ってから外に並びます。僕が先頭でやんす。
メガ的な量の割には開店はいいほうだと思うのですぐに順番が回ってきました。並ぶのが嫌いな僕にはこの上ない喜び。
無料トッピングはヤサイチョイマシ、ニンニク、コイメの3つだけなのでもちろん全部いきます。
待つこと数分。チンジャオメガロースー麺が キタ━(゚∀゚)━!!!!!!!
こうして見るとメガ的な感じに欠ける気がしませんか。いやいやそれは気のせい。
がっつりとチンジャオロースーの細切り肉が麺を覆い隠しています。
チンジャオロースー美味しいよね。炭水化物の大親友だと思うんだ。
後ろを見るとチョイマシのヤサイとニンニクがガツンと控えています。ガツンと控えてるって変な言い方だね。ひとりでツボにハマって笑ってしまった。
このチンジャオメガロースー麺は汁なしの混ぜそばです。汁なしということになっています。それじゃ混ぜるしかないでしょ。僕の混ぜ込み魂に火がつきました。
ふふふふふぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉおおおー!
ちーんんんんんんんじゃじゃじゃじゃおおおおおおぉぉぉおろーおおおおおおすぅぅぅぅぅううう!
めえぇぇぇぇぇぇえええええええががががががんんんんじゃああああああ!
はいはいはいはい!おっかさんのためならえ〜んやコーラ!もはや投げやり感が抑えきれない。混ぜるのは大好きなんだけどさ。
ということで精魂込めて混ぜました。混ぜさせていただきました。
この情熱を仕事にも分けてあげたい。
濃厚なチンジャオロースーの旨味醤油味がギトギトにゴワゴワの極太麺に極限的に絡みついて、なんていうかすんげー美味しいのです。語彙貧困。
ニンンクがしっかりと効いてくるとやはりいつものメガガンジャ味に傾倒していくのですが、それまでは完全にご飯のお供チンジャオロースー味。
こいつをおかずにご飯が3杯は食える感じで気分はすっかり炭水化物祭り。
断糖ってなんだっけ?
汁なし麺ってことだったんだけど、けっこう汁あるよね。メガガンジャの汁なし通常メニューの「マカナイ」もけっこう汁あるからね。これくらいは想定の範囲内。
完全に食いかけ写真でごめんなさい。
汁なしの汁に残った残骸をぺろっと片付けて、いよいよ無いはずの汁をぐいぐいと飲んでいきます。しょっぱいけどやめられない止まらない。かっぱえびせんかっ!
この汁がとても美味しくてね、ご飯が切実に欲しくなるくらいなんだよ。ご飯ぶっこんだら卒倒するほど美味しいだろうなあって。
そんなことを思いつつずるずると汁をすすっていたら完食です。
大満足の一杯!ごちそうさまでした。
ゴールデンウィークは果たしてこのあとどんな限定メニューが待ち構えているのでしょうか。とても楽しみです。全部行ったら僕の断糖生活に終止符が打たれることでしょう。う〜む、悩ましい。
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[ま]対象を持たない笑みの底知れない不気味さに僕は @kun_maa
ひとりで虚ろにニヤニヤしている人が前から歩いてきた。
最近同じような笑みを浮かべている人とよくすれ違うような気がする。
決して僕のことを笑っているのではないことはわかっている。だってこちらを見てもいないのだから。
もし僕のことを笑っているのなら、それはそれで腹立つけど怖さはない。
いったい何がそんなに可笑しいのか。彼らの視線の先をたどってもそこには何もない。思い出し笑いにしてはやけに長いし、何かを思い出して不意に笑ってしまったという類の笑みではない。とにかくその笑みの行き先がさっぱりわからない。
怒っているより笑っている方がいいじゃないかと思うかもしれないが、対象のない笑みは対象のない怒りと同じくらい僕にとっては怖いものなのだ。
笑みというのは自身の感情であると同時に、顔に表情として表出した時にはコミュニケーションの手段となる。
コミュニケーションの手段である以上それは通常の場合外部に向けたものであり、例えば店員が不特定多数に向けて笑みを浮かべたり、赤ちゃんが何もないと思われるところを向いて笑ったりするのも対象が特定されないとか不思議な存在に対しての笑みであるという点はあるけれども、その特定されない対象はあくまでも外部にある。そういう意味でまさしくそれはコミュニケーションの手段なのだ。
ところが最近出会う彼らの笑みはどこまでも内向き。外部に対象なきコミュニケーションの表出。
それはまるで独り言をぶつぶつと呟いて自分とばかり会話をしている人に対して本能的に感じる恐怖感と同じ種類の狂気。
そんな狂気とすれ違うたびに僕はとても不安になるし、底知れない不気味さを感じてしまうのだ。
いったい何で笑っているんだよ......
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[ま]花畑牧場 生キャラメルアイスクリームを喰らう/そういえば田中義剛って最近見ないな @kun_maa
いつから売ってるのかは知らないけれど、たまたま立ち寄ったLAWSONで大量に陳列されていたので買ってみました。
花畑牧場の生キャラメルって一時期すごく流行ってたよね。今はどうなんだろう。田中義剛も最近見ないし...って自分がテレビを見ていないだけか。
パッケージの赤が花畑牧場って感じでなんか懐かしい。
種別はアイスクリームです。ライセンス販売ではなくてちゃんと花畑牧場が製造者。
内容量は110mlなのでハーゲンダッツのミニカップと同サイズです。
成分的にはハーゲンダッツのバニラアイスに比べると無脂乳固形分、乳脂肪分、卵脂肪分の3種目すべてにおいて低い数値。ハゲに比べると薄いのではないかという想像。ハゲとか薄いとか失礼だな。
ダイエッターとしては気になるカロリーは記載がないのでわかりません。
ってかそもそも糖質制限中に食べるものでもない気がします。糖質は制限しても自分には甘くがモットーです。
箱をバリバリと破り捨てると中からは味も素っ気もないシンプルすぎる本体が登場します。余計なところにお金をかけずに味で勝負ってわけですね。よくわかります。
それなら紙包装をやめろよって話ですが。
フタを開けると何やら一度溶けたのが固まったかのような姿のアイスクリームが登場するとともに、やさしいバニラと生キャラメルの香りがふわっと鼻腔を刺激します。
おうおう、なかなか美味そうな香りじゃないか。
よくあるアイスクリーム用の木のスプーンでグワッとすくって喰らいつきます。
アイスクリーム自体はいわゆる「種別 アイスクリーム」らしい濃厚感が強くなく、幾分しゃりしゃり感のあるジェラートのような軽さ。
つぶつぶと隠れている生キャラメルがアイスとは微妙に異なった食感を伴って口の中いっぱいにその香りを振りまきます。
う〜ん!花畑牧場のキャラメルの香りだ。やはり懐かしい。美味しい。
個人的にはもっとアイス自体が濃厚な感じが好みなんだけどな。
ちょっとさっぱりしすぎている感じは否めません。
アイスクリームというよりもアイスミルクとかラクトアイスに近い感じ。成分的にギリでアイスクリームなのかもしれません。知らんけど。
それにしても生キャラメルの風味はとてもいいです。
ぶっちゃけお値段高めなので感動するほど美味しいかと聞かれれば、この値段だからね、これくらい当然だよねって冷めた答えをしてしまいます。してしまいました。
重たさがない分、パクパク食べられちゃいます。
生キャラメル感にうっとりしながら夢中でパクついていると、糖質のことを考えて罪悪感に包まれる前に食べ終わっちゃう感じがいいね。
まあ、これは最高だから絶対食べた方がいいよというほどでもないけれど、さりとて不味いわけでもなく普通に美味しいのでコスパの悪さを除けば好きかもしれない...かもしれない。
そんな感じのなんとも煮え切らないやつです。何が、僕が。
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[ま]屍者の帝国/壮大な世界観で迫る最高のエンターテイメント小説 @kun_maa
溢れる才能を持ちながら34歳で早逝した天才作家伊藤刑劃によるプロローグを引き継ぎ、芥川賞作家である円城塔が完成させたSFエンターテイメント長編小説である。
ちなみに2015年に映画化されたのだが僕は観ていないし、映画化されたことで原作の表紙まで変わってしまい、単行本の時の表紙が大好きだった僕は途方に暮れている。
作品の舞台は19世紀末。
死者と生者を分かつものは「霊素」、いわゆる魂の存在であり、人工的にプログラミングされた「擬似霊素」を死体にインストールする事で自由に操ることができる「屍者」技術が普及している世界である。
主役はあのシャーロックホームズの相棒ワトソンだ。ホームズは出てこないけどね。
しかしホームズの兄マイクロフトと思われる人物は「M」として登場する。
そう、この作品には他にもヴァン・ヘルシングやカラマーゾフの兄弟、フランケンシュタイン博士や風と共に去りぬのレッド・バトラーなど有名な物語の登場人物や、インド総督のリットンや第18代アメリカ大統領グラント、ナイチンゲール、川路利良、明治天皇など歴史上の実在人物まで登場する。
あまりにも登場人物が豪華な上に錯綜していて、正直なところ僕の浅はかな知識ではまったく追いつかない。
物語はイギリス政府の諜報機関にスカウトされたワトソン、通訳兼記録者としての屍者フライデー、豪快なバーナビー大尉の3人が「屍者の王国」と狂気の天才屍者学者フランケンシュタインの手による「ザ・ワン」、「ヴィクターの手記」なるものを巡りアフガニスタン、日本、アメリカ、ロンドンと世界を飛びまわる。その魅力的な登場人物と独特の雰囲気が読み手をすっかり作品世界に引きずり込んでいく。
さまざまな登場人物が錯綜し、「屍者」をめぐる多くの謎が読み手を翻弄していく。
「屍者」をめぐるさまざまな謎を追いかけるSF冒険小説の形を借りながら、伊藤刑劃が「虐殺器官」や「ハーモニー」で描いた「言葉」や「人間の意識」についての物語世界を突き詰めているようにも見える。
円城塔は、あとがきでこう書いている。
しかし、『虐殺器官』で言葉による人間社会の崩壊を、『ハーモニー』で人間意識自体の喪失を描いた伊藤刑劃が「死んでしまった人間を労働力とする」物語を構想した以上、その先へと進もうとする意図を読み取らずにいることはとても難しいのです。
あまりにも壮大な世界観の物語が描き出す「核心」が暴かれた時、我々読み手は圧倒的な衝撃にうち震え呆然とすることだろう。
そして人間性とはなにか、また物語の持つ「力」や「可能性」についてあらためて考えさせられる作品である事はまちがいない。
果たして僕はこの物語を正しく読めているのだろうか。そんな不安に囚われっぱなしの不思議な読書体験。
多くの物語、歴史的事実、映画007の知識があればあるほど、その奥深さや作品に組み込まれている楽しみを味わうことができる作品であり、その分量とは裏腹に一気に読ませるおもしろさも併せ持った作品である。
要は、浅くも深くも楽しめる。
これこそよくできているエンターテイメント作品の魅力なんだろうなあ。
僕の言葉足らずの感想ではまったく作品の魅力を伝えられない。残念なことに「私の言語の限界は私の世界の限界を意味する」のだ。
是非、その目で自分の感覚でこの作品を味わって欲しい。
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