自分のためではなく他人のために何かを為すこと。たとえ自分を犠牲にしても他人のために何かを為すことは絶対的な善であると信じて疑わない空気。
利他的な行動は完全に善い行いであり、他人のことを差し置いて自分のために行動する利己的で自己中心的な振る舞いは常に悪であるという考え方には違和感しか感じない。
もちろん利他的な行為は不必要なものであり、即ち利他性は悪であるなどと戯けたことを言いたいわけではない。
困っている人や弱いものを守り協力しあうことは人間が社会的な生き物である以上、共同生活を営む上で必要不可欠なものであると思っているし、そのような行動が全くない殺伐とした世紀末的風景を見たいわけでもない。
しかし利他的であるということを絶対的な善であるとして、それこそが価値ある行動であると当然のごとく決めつけられることが嫌なのだ。
利他的であることだけがあたかも道徳的で倫理的に優れたことであり、利己的であることが不道徳で不倫であると否定し抑圧するような空気がたまらなく息苦しい。
人間なんて基本的に利己的なものであり、まず自分ありきという姿こそが自然なものなのではないだろうか。極論すれば、自分さえよければそれでいいいのだってのが自然な考え方じゃないか。その上で、余裕があれば他人のために行動するというのが本来の姿だと思うんだ。
誰だって自分が一番大事なはずだと思うのだけど、そこに利他性に対する絶対的な善という価値基準を持ち込んでしまうから大事な部分が逆転してしまうのだ。自分以外の他人や環境や物事が自分よりも大事だなんて生き物として不自然だ。
自分のことばかり考えるのは悪い生き方で、他人のことを考えることだけが正しい生き方であり、利己的で自己中心的な生き方を「悪」と断罪してしまう思考はやっぱり気持ち悪い。利他性こそが正義であると疑問も持たずに言い切れる不寛容さの思考停止。
利他性を強要されるなんて馬鹿げた悪夢としか思えない。
衣食足りて礼節を知るっていい言葉もあるじゃないか。
まずは自分だよ。自分が自分のためにいいと思うことを為せばいい。
利他的であれという同調圧力に屈することなく、利他的であることが絶対的な善であるなんていう呪縛から逃れよう。
自分自身を一番大切にしなくてどうして真に利他的な行動をとることができようか。
利他と利己のふたつに貼られた善悪という価値基準のラベルに振り回されるのではなく、本当の意味で自分以外のために何かを為すことができるのは自分に余裕がある人だけ。
こんな出来事も利他的であるための利己性について考えるきっかけになった。
まだ同じところをグルグルと回っているだけで考えがまとまらないのだが、とりあえず最近つらつらと考えていることを書き出してみた。言葉が足りない。
利他的な行為を否定するつもりはないが、利他的であることが絶対的な善であると決めつけることが正しいとは思えない。利己的であることは絶対的に悪であると否定するのはやはり何かが違うような気がする。
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