[ま]ありのままの自分に気づく(小池龍之介 著)/生きることの苦しみを軽くするために @kun_maa
私たちは平素、今よりももっと良い感じの人間になりたがっているものです。「もっとデキる人になりたい」「もっと明るくなりたい」「成功者になりたい」「誰々から好かれる人になりたい」「多くの人から評価される人になりたい」などなど・・・(「まえがき」から引用)
こういう感情はきっと誰でも持っていて、その「◯◯◯になりたい」っていう欲求が僕たちのやる気を生んだり、前進するためのエネルギーになったりすると思うんだけど、仏教ではこの気持ちこそが生きる上での苦しみの原因とされている。
それはなぜなのか。本書によれば簡単に言うと次のようなことらしい。
「もっと◯△×な自分になりたい」と願うことは、現在の、ありのままの自分を承認できず、現在の自分を嫌がるのと同じ心理作用をもたらします。ありのままの私たちは、けっこう弱いし、ズルいし、情けなかったりするものです。そうした心の中にある情けない部分を必死に否定しながら、「もっと良い感じでいたいッ」とばかりに、背伸びしようとしてしまっている、ということ。(中略)無理な背伸びのせいで肩には力が入りっぱなしになり、いつも緊張していて、ホッとひと息つく、安息の時が得られなくなるのです。そして、何よりも重要なことには、いつまでも自分に対し、「もっと良くなりなさい」「ちゃんとしなさい」と命じ続けるせいで、自分が根っこのところで自分の弱い部分を承認できないままになってしまうのです。
こうして、根っこのところでの自己承認感覚が脆弱であればあるほど、他者から承認されることでそれを補いたくもなるのでありまして、他人の視線や言葉を気にしすぎることにもなり、他人の評価に一喜一憂して、心穏やかでいられなくなります。
たしかに自分の弱いところを自分が認めてあげられないようだと精神的にきつい。
いつもいつも今以上の何ものかになろうとし続ける生き方は正直しんどい。
なんで今の自分じゃダメなの?そんなに自分の人生を変えたいの?より良い自分ってなんなのさって僕はいつも思っている。
こんなことを書くと向上心の欠片もないダメな奴と思われるかもしれないけど。まあそのとおりだからしょうがない。
ありのままの自分をそのまま認めてやって背伸びをしない生き方を選んだとしても、日々刻々と人生は移ろい変わっていく。
今の自分は今ここにしか存在せず、そのことを考えている自分はさっきの自分とはもはや違う人間だ。
ましてや昨日と今日の自分なんて別人だとすら言えるかもしれない。
わざわざ背伸びをして無理してまで変わろうとしなくとも放っといたって何も変わらない人間なんていないだろう。だからこそ未来の自分を保証することができないし確信ももてない。でも、それが自然な姿じゃないのかな。
僕が特に気になるのが「何らかの形で自己実現をしなくては生きている価値がない」とか、「社会の中で自分の価値を作り上げなくてはならない」とかっていう考え方。
そのためにより良い自分を目指して目標を立て、高みを目指さないといけないって考え方に捕らわれることが果たして本当に幸せなのかなってよく考える。
その裏にはまるでそうしない人間には価値がない、何もしない人生は価値がないとでも言わんばかりの風潮が気になって仕方ない。人生って意味がないとダメなんだろうか。
そんなことにこだわるせいで、結局は他人からの承認欲求にまみれて苦しむように思えてならない。今より上を目指さない人生ってそんなにダメなんですか?
とにかく頑張れば願いは叶う、思い通りになる。今よりももっとすばらしい自分にならなければならないっていうことが絶対に正しいことのような空気の社会ってなんだかやっぱり息苦しい。
僕たちは自分の心ですら思いどおりにならないというのに全てのことが努力と才能とコツで思いどおりになると思い込んでいないだろうか。思い込まされてはいないだろうか。そしてその思い込みと現実の狭間で苦しみは絶え間なく生まれる。そんなふうに思えてならない。
確かなものなどなにもない諸行無常の世の中で、明日の自分すらどんなことを考えて、どんなふうに生きたいと思っているかわかりもしない。
正しいことなんか誰にもわからないからこそ、他人からの承認にすがるのではなく、かといって独善的に己が正しいと思い込むのでもなく、その時々の自己の心持ちや状態や感情をありのままに見つめて中立的に受けとめる。そんなことが僅かずつでもできるようになっていけば苦しみも少しは減るような気がする。
本書では次のように述べている。
自分の心は、生きている限り、ありとあらゆる機会ごとに苦しくなるという厳然たる事実を、「仕方ないね、つらいだろうね」という憐れみをもって、中立的に受けとめる。(中略)他人に対してのみならず、自分に対してすら「こうなれ」「ああなれ」と肩に力を入れて口出しするのは逆効果なんだなという、無常・苦・無我の「諦め」を保って、ただ中立的に見つめる念(きづき)に徹する。それが仏道の核心です。
執着や思い込みを捨て、この世のすべてをあるがままに受けとめること。言うは易し、行うは難しの典型のようなものだ。だからこそ仏教には修行が必要なのだろう。
それでも生きていく苦しみの元凶に気づき、自分をあるがままに見つめるためのきっかけになる一冊なんじゃないかな。
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[ま]amazarashi 初のベストアルバム「メッセージボトル」/amazarashi を知らず生き辛さを感じている人にこそおすすめしたい @kun_maa
好きなバンドは?とか、どんな音楽を聴いてるの?って聞かれて「amazarashi(アマザラシ)です」って答えると9割方の人に「は?」って顔をされる。
amazarashi を知らない人が多いってことにはもうすっかり慣れっこになってしまった。彼らの楽曲を知らないなんてすごく残念だなって思うのと同時に、秋田ひろむが紡ぎだす独特の挫折感や屈折した心情を織り込んだメッセージ性の強い歌詞と切なくも力強いメロディに救われた気がして希望を見出す必要のない人生というのもそれはそれできっと幸せなんだろうと思う。
そんな彼らの初のベストアルバム「メッセージボトル」が2017年3月29日に発売された。アルバムには3種類あって、完全生産限定盤、初回限定盤、通常盤。よくありがちな差別化ではあるけれど、コアなファンから入門者まで好きなタイプを選べるという点ではアリだと思う。
僕はもちろん完全生産限定版を購入した。
これがまあパッケージがデカい!いや、うれしいんだけどさ。ちょっとびっくり。
パッケージのデザインも amazarashi っぽくて好きだ。
メッセージボトルには秋田ひろむが選曲した amazarashi の代表曲全 26 曲が収録されている。今後も歌い続けるであろう曲を選んだという秋田のコメントのとおり、僕も特に好きな amazarashi らしい楽曲ばかりが詰まっていてすごくうれしい。
さらに2つの限定版には彼らのメジャーデビュー前の2009年に、出身地である青森で500枚限定リリースされたまだひらがなの「あまざらし」だった頃の幻のミニアルバム「光、再考」を完全収録。その他に6曲分の特別映像を収録したDVD、amazarashiの過去をつづった小説「メッセージボトル」も同梱されている。
僕が手に入れた完全生産限定盤には、これらに加えてCDに収録されている全曲の歌詞、そして彼らのアルバム全曲の歌詞と対になった詩を収録した全集も付いてくる。
amazarashi ファンとしては失禁しそうなくらい特別で思い入れの強いベストアルバムとなっているばかりか、まだ amazarashi の楽曲を知らないという人にとっては彼らの音楽性を手っ取り早く知るためにとてもおすすめなアルバムである。
CDとDVDが合わせて4枚。
小説や詩が収められている全集は布張り豪華版である。単なる特典って感じのおまけ感はまるでない本格仕様の本である。
「amazarashiくん」をはじめとしてファンにはおなじみのイラストあり。
amazarashi の過去をつづった小説。
メッセージボトル収録曲の全歌詞。
amazarashi全詩集。
全詩集が付いてくるなんて、彼らの楽曲は言葉にこそ一番の魅力がある(と僕は思っているのだけど)amazarashi らしい趣向だと思う。
amazarashi の歌に涙し、力づけられ、時にはさらに落ち込んだりしながらも聴き込むほどに離れがたくなる魅力にすっかりハマってしまった僕は今回の「メッセージボトル」に大満足である。
そりゃあの曲も入れて欲しかったなとかそんなことは当然あるわけだけど、それを言ったらキリがない。今の時点での amazarashi を表すには素晴らしい選曲だと思う。
彼らのライブには年末のCDJで初めて参加したのだが、観客席との間に紗幕を下ろして様々な映像や歌詞を投影しながら演奏するスタイルは刺激的で心に強く残るものだった。
実はすでに3月から始まっている「amazarashi Live Tour 2017」の6月3日豊洲PITでのライブに参加する。「メッセージボトル」を存分に堪能しながら今からライブが楽しみで仕方ない。
amazarashi をまだ聴いたことがないという人、その中でも今なんとなく生き辛さを感じている人にこそ是非おすすめしたいのが「メッセージボトル」である。
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[ま]自分がどうにもできないことに心のリソースを割くことはやめようと思う @kun_maa
僕は自分の努力や働きかけでどうにかなることと、自分ではどうにもならないことをごちゃごちゃにして思い悩むクセがある。
そういうクセがあるっていう自覚は冷静な時にはあるのだが、それでも実際にその渦中にいるときはそんなことさえ忘れてしまって「ああああああああ!」って頭を抱えてドツボにハマる。
そんなときは気がつくと既に自分にはどうすることもできないことを繰り返しその姿形を変えて脳内ループさせ落ち込んでいくという自滅的なことをしているんだ。
そうなってしまうと頭の中で考えているだけ(実際には考えているというよりは堂々巡りで思考が止まっているんだけど)だとダメだ。
何が問題なのか、何を悩んでいるのか、なんで落ち込んでいるのかってことをノートに書き出してみる。僕の場合は、モレスキンを常に持ち歩いているので、そこに思いつくことをすべて書き出しちゃう。
うだうだと脳内ループにはまり込んで苦悩するよりも小さな行動をすること。
そうすると、書き出されたものは大まかに次の3つに分けられているはず。
①すぐに行動すれば解決するもの(でもめんどくさくてやっていない)
②すぐに行動する必要はないけれど先が見えなくて不安を感じているもの
③自分がコントロールすることはできないもの
①については、とりあえず心の負担をあまり感じない程度に行動を細分化してみて、取りかかれるところから始めてみると、意外とすんなりいくことが多い。それも辛かったら無責任だけど人に丸投げしてみるとかね。書くだけで実際には丸投げする勇気がないんだけどさ。
②については、進め方がわかっていないことによる不安が大きいのだから、うじうじと悩んでいないでわかりそうな人に聞いちゃう。もしくは、過去の経験から類似例を当てはめてみるとなんとなく上手くいきそうな気がしてくるから、すかさず計画を立ててみる。上手くいくかいかないかはやってみないとわからないけど、仮にでも計画があればなんとなく安心。
そして最後の③。これはもうどうしようもないんだよ。僕の場合は圧倒的にこの③に当たることで思い悩んでいるのが、ノートに書き出してみるとよくわかる。
例えば他人の行動や気持ちに対する願望、すでに起こってしまったことに対する後悔、自分に決定権がない事案などなど。
ある人に自分の願望通りに考えて欲しいとか、行動して欲しいとか思ってもどうしようもない。そりゃ自分の希望は相手に伝えられるけど、それを聞いて最終的に行動を決めるのは相手であって僕に決定権はないわけだから。
すでに起こってしまったことに対してもそう。時間を逆転することはできないのだから、起こってしまったことはそれとして潔く受け止めなければしょうがない。
もともとそれほど余裕があるわけでもない自分の心のリソースを、どうしようもないことでいっぱいにしてしまっては、自分の力でなんとかなることに対する冷静な判断や考え方をすることができなくなってしまう。
最近の僕はまさにそんな感じ。心のゆとりを失くしてどうしようもないことばかりに思い悩み、他のことが考えられなくなってしまう。こういう自分が実はとても嫌い。
こんなふうにブログに書いているのも、ノートに思い悩んでいることを書き出してある程度整理できたから。
以前は煮詰まるとよくノートに書き出していたのだが、職場環境が変わったりして最近は混乱してもなかなかその場で書き出すことができない。だから余計に心の整理ができずにモヤモヤや不安が澱のように心の中に溜まっていって心の余裕がなくなっている。
久しぶりにノートに書き出したことで、やっと少しだけ気持ちが楽になったような気がしている。
自分がどうにもできないことは気にしないことにしよう。
まあ、そうは言っても性格的な部分もあるので簡単なことではないのだけれど。
またどうしようもないことでウジウジと心の中がいっぱいになりそうになったら、すぐにノートに書き出して頭の中から追い出さなければ。ごめんよモレスキン。
なかなかめんどくさいんだよな、自分。
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[ま]「自殺」(末井昭 著)/説教や説得や生き甲斐を説くわけではないけど自殺を止める力があると思う @kun_maa
この本、タイトルがズバリそのまま「自殺」です。
本屋で平積みで売られているのを見かけたときに、そのタイトルと表紙のムンクの「叫び」にこれはきっとふざけたトンデモ本に違いないと思いました。
でも手に取ってみてパラパラと流し読みしてみたらこれが思っていたのと全然違うんですね。すぐに本を持ってレジに並んでしまいました。
だって落ち着いて続きが読みたくなったから。
著者自身は自殺しようと思ったことは一度も無いと本書の中で書いているんですが、逆になんでこれだけの体験をしてきて一度も自殺しようと思ったことがないの?って不思議に思えるほど書かれていることは凄まじいです。
それは、著者が小学校に上がったばかりのころに隣の家の年下の青年とダイナマイト心中をした母親の話から始まり、先物取引や不動産購入で億単位の借金地獄になったり、うつになったり、大腸がんになったり、不倫を繰り返したり、その挙げ句不倫相手が自殺未遂したり、不倫相手が精神を病んだり、ギャンブルに狂ってみたり......そこまで体験しちゃうのかってくらい凄まじい。
でも、この著者はそれを飄々とおもしろおかしく書いてしまいます。
だからよく考えると「これは......」と絶句してしまうような体験が書かれているはずなのに思わず笑ってしまって、なんだか自分が不謹慎なような気分になります。
そして著者のことを「こんなことをしている人が平気で生きているんだから、生きた者勝ちだな」って思えてくるから不思議です。
著者は自殺について次のように書いています。
僕は必ずしも「自殺はダメ」とは思っていません。もちろん死ぬよりは、生きていた方が良いに決まっています。でもしょうがない場合もあると思います。人間社会は競争だから、人をけ落とさなければならない。時には人をだますこともあるでしょう。でも、そんなことしてまで生きたくないって思うまじめな人、優しい人に「ダメ」と、分かったようなことは言えないですよ。まじめで優しい人が生きづらい世の中なんですから。(中略)
お金持ちは「日本は自由競争で、だれにでもチャンスがある。お金がないのは、あなたが努力しなかったから。貧乏は自己責任」と言います。だけど今後、経済は縮小するし、格差も広がって、お金はますます行き渡らなくなる。だから、お金がないのは、あなたが悪いんじゃない。社会が悪い。社会が悪いのにあなたが死ぬことはないんです。(P.4〜5)
そして、すぐ直後のこの部分にもドキリとさせられました。
先ほどの引用部分もこの引用部分も前書きからの引用なのですが、著者の基本的なスタンスを的確に表明していて心を動かされました。
この本を「読みたい」と思ったのもこれらの部分を読んだからです。
世の中、自殺について醒めているような気がします。交通事故死者の六倍も多いのに「最悪ペース」を報じる新聞の記事もあまり大きくなかった。熱心に自殺防止に取り組んでいる自治体やNPOもありますが、おおかたの人は自分とは関係ない話だと思ってるんでしょう。もしくは自殺の話題なんか、縁起悪いし、嫌だと目を背けてる。結局ね、自殺する人のこと、競争社会の「負け組」として片づけてるんですよ。「負け組だから死んでもしょうがない」「自分は勝ち組だから関係ない」と。「ああはなりたくないね」と。(P.6)
世の中には精神医学や心理学、社会学的な見地から「自殺」について書かれた本がたくさんあります。データの分析や研究で学問的に「自殺」を捉えて対策を考えることも大事でしょう。それは社会問題としての「自殺」への対策として必要なことだとも思います。
でも大上段に構えて「自殺はいけないこと」「自殺をやめよう」「自殺を止めよう」というのは言うだけなら簡単だし、それにどの程度の効果があるのか僕は知りません。
行政が大金をかけて取り組んでいる自殺防止キャンペーン。それなりの効果はあるのかもしれませんが、やはりどこか他人事のように感じるのです。
それよりも本書のように「自殺」に優しく寄り添い、自らの体験をおもしろおかしく晒すことで、多くの人の心に笑いと自殺するのがバカらしくなるような脱力感を与えてくれる本の存在は貴重だなって思います。
ほかに無いですよ。こんなに心がこもっていて読んで楽しくて、死ぬのがバカらしくなる本なんて(賞賛しているつもりです)。
あとがきで著者が書いている次の文が本書のことをよく言い表しています。
自殺しようとしている人に、拙い僕の文章が届いたかどうかわかりませんが、ほんの少しでも心が動いてくれたら嬉しいです。「こんなバカな人間がいる」と思って笑ってもらえれば、さらに嬉しいです。
僕も母親を初め、何人かの知り合いが自殺していますが、親しい人の自殺は本当につらいものです。この本がそういう方々の慰めに少しでもなればという思いもあります。(P.354)
自殺したいとちょっとでも考えている人にはぜひこの本をすすめたいです。
また、なんだか今の世の中生きづらいよなって感じている人たちにもぜひこの本を手に取って欲しい。そんな気持ちにさせられる心に響いた一冊です。
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[ま]久しぶりのメガガンジャはガッツリ系ではなく「つけ頑者」で満腹 @kun_maa
断糖ダイエットを始めてから大好きな麺類からすっかり遠ざかってしまった。
1か月のダイエットの結果、人間ドックで問題のあった項目を全てクリアしたことで現在はかなり緩めの断糖状態(それを断糖と呼べるのかという問題はさておき)なのだが、クラフトビールは解禁したものの麺類への復帰は見送ったままだったのだ。
どうせ麺類を解禁するならメガガンジャでガツンと喰らおうかと企んだのだけど、すっかり少食となってしまったので以前のような二郎インスパイア系のガッツリしたやつを全マシで完食する自信がない。とてもじゃないがこんなゴツいのを食べきることはできない。
ゴツいのを食べきる自信はなくてもやっぱりメガガンジャに行きたい...という葛藤を経て出した結論が、メガガンジャでつけ麺食べればいいじゃないっていう日和見的バラ色回答。そこにメガガンジャである意味はあるのかい?って自らの心が発する疑問には蓋をして、いそいそと行ってきました超久しぶりのメガガンジャ。
券売機から「こっちを押せよ!」って無言の圧力を加えてくるメガガンジャの定番メニューたちの脅しに屈することなく「つけ頑者」のボタンをポチっと。ああ、俺も歳をとったものだな...なんて感傷に浸りながらさ。
ちょうど席が空いて待つことなく座れたのはよかったものの、そこからがちょっと長かったかな。しばらく来ないうちに店員さんが変わっていてまだ慣れていないみたいだ。
席で待つこと17分。「つけ頑者」が キタ━(゚∀゚)━!!!!!!!
そこには山盛りのヤサイもニンニクもないけれど麺はゴワゴワわしわしのメガガンジャスタイル極太麺。大好きなアブリチャーシューが一切れ載っている。
つけ汁は魚介豚骨のギトギト濃厚なスープにギョフン入りの「頑者」スタイル。ナルトののの字がいいじゃないか。そのシンプルで無骨な姿とふわっと香るいい匂いに心がソワソワしてよだれが口の中に噴出す。
極太麺をつけ汁につけて久しぶりに炭水化物の塊を喰らう。麺にたっぷりと絡みついた濃厚なつけ汁と弾力のある極太麺の食感が食欲をMAXにそそることは言うまでもない。ああああ...炭水化物万歳!
アブリチャーシューも相変わらずほろほろの食感と香ばしさがたまらん。
正直な話、つけ麺が目の前に来た時は「こりゃちょっと足りなかったかも...」なんて余裕をぶっこいていたのだが、食べ始めたら足りないどころか胸やけしそうなほどの満腹感。あれ?こんなはずじゃなかったんだけどな。
ダイエット中もそれなりに食事の量は食べていたので胃が小さくなってしまったわけではないのだが、炭水化物をたくさん食べられない体質に変わってしまったようだ。
悲しい。
肉類を食べるのと比べて炭水化物はすぐに満腹になってしまうのだ。
ラーメン全マシで!とか勢いで注文しなくて本当によかった。きっと半分も食べられなかったに違いない。自分で感じている以上に炭水化物が量食べられなくなっている。
それでも一寸の虫にも五分の魂。つけ汁はちゃんとスープで割って美味しくいただいた。慣用句の使い方が間違っているような気がするが。
もちろん完食。でもかなーり満腹なんだぜ。
久しぶりのメガガンジャはとても美味しかった。だけど、なんだろうこの敗北感は。
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[ま]欲望の植物誌/操っているのは人か植物かとても興味深い一冊 @kun_maa
この本の主役は、リンゴ、チューリップ、マリファナ、ジャガイモという4つの身近な植物だ。ああ、日本でマリファナは違うか。もし日本在住のあなたにとってマリファナが身近なものだとしたら「おまわりさーん、こいつです!」だ。
この本では人間の持つ欲望と4つの植物の魅力が複雑に絡まり合って、どの視点から見るかによって、人間が植物を操って改良をしてきたのか、それとも植物の魅力に人間が操られて植物の進化を助けてきたのかはっきりとわからなくなる。
「甘さ」に対する欲望を「リンゴ」が、「美」に対する欲望を「チューリップ」が、「陶酔」に対する欲望を「マリファナ」が、「自然を管理したい」という欲望を「ジャガイモ」が、それぞれ代表して各々の物語を紡いでいく。
そこに綴られている物語は、人間からの視点だけではなく「植物の目を通して」描かれてもいく。しかもその描き方が独特で時間軸の幅の広さ、取り上げる物語の豊富さ、著者自らの体験談のおもしろさなど、通り一遍の物語の範疇には収まらないとても内容が豊潤でちょっと変わったおもしろさを持つ一冊となっている。
本書で描かれている4つの植物と人間の欲望のせめぎ合いは、「栽培」という言葉に代表されるように人間が自分たちの思うがままに植物を育て、改良し、収穫してきたというこれまで常識と思われていた視点から、これらの植物は人間が「栽培」したくなるほどの魅力をあえて備えた存在であり、その魅力によって巧みに自らの進化に人間の関与を組み込み、その結果、まるで人間の方が植物に操られたと思えるほど歴史や文化に影響を与えてきたのではないかという別の視点の可能性を示してくれる。
そして、人とこれらの植物との関係は、実は人間だけが一方的に植物に対して手を下してきたものではなく、「共進化」とも言うべき関係にあることをわかりやすく提示しているのである。
そういう意味では第1章〜3章までの「リンゴ」「チューリップ」「マリファナ」の物語と、第4章の「ジャガイモ」とエピローグとは性格を異にしている。
人間と植物の「共進化」の歴史を描いた第1章〜3章。そして人間の都合のみによる植物からの視点抜きの一方的な「遺伝子組み換え作物」の登場とそこに潜む漠然とした脅威を描いている第4章とエピローグ。
幅広いエピソードと深い知見によって人間と植物との長く豊かな物語を説いた後で語られる最後の章は、読者にとても多くのことを投げかけ、そして考えさせることになる。
それまでの楽しく豊かなエピソードは、最後の章をまじめに考えさせる為の前振りだったのではないかと疑ってしまうほどであり、最終章がおそらく本書のメインテーマなのだろう。
人間からの一方的な視点だけではなく、見方を変えた植物からの視点を本書で得たうえで、生命の多様性を狭め、進化の可能性をも狭めることとなる遺伝子組み換え技術と単一栽培についてどう考えていくのか。それが果たして本当に人間と植物にとって進むべき道なのか。
著者は我々に重要な問いを投げかけている。しかし本書を読んだ後では答えは明らかなのではないだろうか。
ありのままに共に生きよと。
植物に対して特段な興味がない僕ですらハマり込んで読み耽ってしまった一冊。
とてもおもしろい本であり、植物に対する見方が変わる本である。
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