猟奇的な印象のタイトルとは裏腹に、とっても青春している小説です。
膵臓の病気で余命1年という高校生の少女「桜良(さくら)」と同級生の「僕」の物語って書くと、ありがちな設定のお涙頂戴闘病ストーリーかと思うでしょ?
それがぜ〜んぜん違うんだなあ。
病気と死を取り上げながら、表面的には湿っぽさなんて欠片もないストーリー展開。
それを魅力的にしているのは、なんといっても桜良と僕のしつこいくらい軽妙なやりとりの数々。
例えば半ば強引に桜良に連れて行かれた焼肉屋での会話。
「話を戻すけど、これからは?」
「あー、話題を変えたー。さては泣いているな?これから私はロープを買いにいくよ」
「泣いてねーよ。ロープって」
「お、君も男の子っぽい言葉遣いするんだね。私をキュンとさせようとしてるのかい?うん、ロープ。自殺用の」
「誰がもうすぐ死ぬ子に言い寄るんだろう。自殺するの?」
「自殺もいいかなと思ってたんだけどね。病気に殺される前に自分でって。でも今のところ自殺はしないと思う。ロープはね、いたずらのために買うの。っていうか【秘密を知ってるクラスメイト】くんひどい!私が傷ついて自殺してもしらないよ」
「いたずら?自殺するとかしないとか話がごちゃごちゃしてきたね。とりあえず話をまとめよう」
「そうだね、君は彼女っていたことは?」
「何をどういう風にまとめたのか詳しく聞きたくないから、話さなくていいよ」
また二人で泊まりがけで出かけたある街の天神様の前で。
彼女の膵臓が治りますように。気がつけば、彼女よりも長く僕は祈っていた。叶わないと分かっている願いの方が、きっと祈りやすいのだろう。もしかしたら彼女は違うことを祈ったかもしれない。僕にはそれを訊く気はなかった。祈りは、一人で静かに捧げるものだ。
「死ぬまで元気でいられるようにってお願いしたよ。【仲良し】くんは?」
「・・・・君はいつも僕の想いを踏みにじるね」
「え、まさか私がどんどん弱っていくようにお願いしたの?最低!見損なったよ!」
「どうして人の不幸を願うんだよ」
と、常にこんな感じで物語は進んでいきます。
そこにはこの手の物語にありがちな「病気で(恋人や友達が)早逝するって悲しいよね」っていう涙の押し売りがまったく存在しません。
なぜなら、桜良は自分が病気であることを周囲に知られることで日常が変化してしまうことを嫌がっているから。
最後まで自分の日常を守りたかったんだよね。だから親友にさえ病気であることを隠し続けています。
たまたま彼女の病気のことを知ってしまった「僕」の前でだけ、病気の話をするんだけど、それすらもさっきの引用部分のような感じなのです。
でも、ふとしたこんな会話に彼女の本音がもれてもいます。
「いや、私も君以外の前では言わないよ。普通はひくでしょ?でも、君は凄いよ。もうすぐ死ぬっていうクラスメイトと普通に話せるんだもん。私だったら無理かもしれない。君が凄いから私は言いたいこと言ってるの」
「【仲良し】くんにしか話さないよ。君は、きっとただ一人、私に真実と日常を与えてくれる人なんじゃないかな。お医者さんは、真実だけしか与えてくれない。家族は、私の発言一つ一つに過剰反応して、日常を取り繕うのに必死になってる。友達もきっと、知ったらそうなると思う。君だけは真実を知りながら、私と日常をやってくれてるから、私は君と遊ぶのが楽しいよ」
そう、人と関わることを避けて好きな小説の世界の中だけに生きてきた、友達もいない孤独な「僕」という人間だけが、病気で余命1年という彼女との自然な関係を保つことができ、二人はお互いに影響し合っていくのです。
明るくて誰からも好かれる人気者の桜良と、他人に関心を持たずクラスの中でも孤立している「僕」という対照的な二人が、お互いに惹かれ合いながらも、愛だ、恋だ、友情だというありきたりな言葉では表現できない特別な関係を築いていく様子は、まさに良質で切なく甘酸っぱい青春小説そのものです。
こんなテーマを扱いながら、なんでこれほど明るく爽やかな物語になっているのかなって考えたら、二人の軽妙な会話のやり取りはもちろんのこと、いわゆる闘病シーンというのが描かれていないんですね。
これはおそらく意図的に描いていないんだと思うのです。
余命1年であれば、苦しい闘病シーンがあっても不思議ではないはずですが、そういう場面は意図的に描かれていない。
そういう要素がふとした楽しい隙間に入り込んでくるシーンはあり、登場人物の「僕」も、読んでいる僕もドキッとさせられる部分はあるのですが、具体的に桜良が苦しむ場面なんてものはありません。
だからお涙頂戴の安っぽい作品とは一線を画しているのだと思います。描きたいのはそんなモノじゃないんだと思うのです。
それじゃあ、単なる普通の青春小説かというともちろんそんなはずもなく、安易な病気モノの涙ではない本当の感動が待っているので安心してほしい。
その部分に差し掛かったとき、あなたもきっと泣くんじゃないかと心配だから、読む場所には気をつけたほうがいいと思う。そうしないと僕のように電車の中で顔を隠しながら涙と鼻水を垂らすことになるから。
それは意外な展開のように思えるかもしれないけれど、実は至るところに伏線が張られていたんだってことに後から気付いたりする。
私も君も、もしかしたら明日死ぬかもしれないのにさ。そういう意味では私も君も変わんないよ、きっと。一日の価値は全部一緒なんだから、何をしたかの差なんかで私の今日の価値は変わらない。私は今日、楽しかったよ
そして、遺された彼女の「共病文庫」に涙しない人がいたらその顔を、心を見てみたいと僕は思う。
前半の軽妙さを楽しんでいればいるだけ、「僕」が桜良との関係の中で次第に変化し、成長していく姿に気付いていればいるだけ、二人の真の関係性に目を向けていればいるだけ僕らはこの「共病文庫」にやられる。涙が止まらない。
真逆な二人だからこそ惹かれ合い、お互いに憧れて相手のようになりたいと願ったんだよね。
本当にいい作品だなって思った。
泣かせっぱなしで終わりではなく、ラストの爽やかさと未来を感じさせるところがまた魅力なんだと思います。
タイトルの猟奇感でひいてしまって読まずにいるのはもったいないし、病気モノの感動作なんて胡散臭くて大嫌いという人にこそおすすめしたい。
これは桜良と僕の関係性と成長を描いたすばらしい青春小説です。
そして「君の膵臓をたべたい」という言葉の意味する本当の切なさってモノを知りたいとは思いませんか。
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