[ま]屍者の帝国/壮大な世界観で迫る最高のエンターテイメント小説 @kun_maa
溢れる才能を持ちながら34歳で早逝した天才作家伊藤刑劃によるプロローグを引き継ぎ、芥川賞作家である円城塔が完成させたSFエンターテイメント長編小説である。
ちなみに2015年に映画化されたのだが僕は観ていないし、映画化されたことで原作の表紙まで変わってしまい、単行本の時の表紙が大好きだった僕は途方に暮れている。
作品の舞台は19世紀末。
死者と生者を分かつものは「霊素」、いわゆる魂の存在であり、人工的にプログラミングされた「擬似霊素」を死体にインストールする事で自由に操ることができる「屍者」技術が普及している世界である。
主役はあのシャーロックホームズの相棒ワトソンだ。ホームズは出てこないけどね。
しかしホームズの兄マイクロフトと思われる人物は「M」として登場する。
そう、この作品には他にもヴァン・ヘルシングやカラマーゾフの兄弟、フランケンシュタイン博士や風と共に去りぬのレッド・バトラーなど有名な物語の登場人物や、インド総督のリットンや第18代アメリカ大統領グラント、ナイチンゲール、川路利良、明治天皇など歴史上の実在人物まで登場する。
あまりにも登場人物が豪華な上に錯綜していて、正直なところ僕の浅はかな知識ではまったく追いつかない。
物語はイギリス政府の諜報機関にスカウトされたワトソン、通訳兼記録者としての屍者フライデー、豪快なバーナビー大尉の3人が「屍者の王国」と狂気の天才屍者学者フランケンシュタインの手による「ザ・ワン」、「ヴィクターの手記」なるものを巡りアフガニスタン、日本、アメリカ、ロンドンと世界を飛びまわる。その魅力的な登場人物と独特の雰囲気が読み手をすっかり作品世界に引きずり込んでいく。
さまざまな登場人物が錯綜し、「屍者」をめぐる多くの謎が読み手を翻弄していく。
「屍者」をめぐるさまざまな謎を追いかけるSF冒険小説の形を借りながら、伊藤刑劃が「虐殺器官」や「ハーモニー」で描いた「言葉」や「人間の意識」についての物語世界を突き詰めているようにも見える。
円城塔は、あとがきでこう書いている。
しかし、『虐殺器官』で言葉による人間社会の崩壊を、『ハーモニー』で人間意識自体の喪失を描いた伊藤刑劃が「死んでしまった人間を労働力とする」物語を構想した以上、その先へと進もうとする意図を読み取らずにいることはとても難しいのです。
あまりにも壮大な世界観の物語が描き出す「核心」が暴かれた時、我々読み手は圧倒的な衝撃にうち震え呆然とすることだろう。
そして人間性とはなにか、また物語の持つ「力」や「可能性」についてあらためて考えさせられる作品である事はまちがいない。
果たして僕はこの物語を正しく読めているのだろうか。そんな不安に囚われっぱなしの不思議な読書体験。
多くの物語、歴史的事実、映画007の知識があればあるほど、その奥深さや作品に組み込まれている楽しみを味わうことができる作品であり、その分量とは裏腹に一気に読ませるおもしろさも併せ持った作品である。
要は、浅くも深くも楽しめる。
これこそよくできているエンターテイメント作品の魅力なんだろうなあ。
僕の言葉足らずの感想ではまったく作品の魅力を伝えられない。残念なことに「私の言語の限界は私の世界の限界を意味する」のだ。
是非、その目で自分の感覚でこの作品を味わって欲しい。
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[ま]断糖ダイエットのその後.../安心してください戻ってませんよ @kun_maa
2月から3月にかけて約1か月間の断糖ダイエットに取り組んだ結果、人間ドックで要精密検査と診断された項目を全て正常値に戻すことができました。
その後は完全な断糖ダイエットをやめてしまい、時々クラフトビールを飲み歩いたり、久しぶりにラーメンを食べてみたりしています。
それでも普段の食事では相変わらず炭水化物を可能な限り取らないということを続けていますので、体重の増減はあるもののまだ人間ドックで引っかかった頃のヤバい体重に戻ったことはありません。
ちなみに最近の体重変化はこんな感じです。体重がぐっと増えているところは前日や前々日にクラフトビールを飲み歩いているのがすぐにわかります。
断糖ダイエットを始める前の体重が 94.5kg でした。今のところビアバーをハシゴして散々飲み散らかした挙句、〆に松屋で牛めしを食べてからのコンビニの冷やしとろろそばを喰らうという炭水化物怒涛のコンボ攻撃にも体重が90kgを超えることがないので、たぶんこのままの生活を続けていれば現状を維持できるのではないかとネガティブな僕にしては比較的楽観。
とはいえ最近はクラフトビールの飲み歩きが全盛期の頃のペースに戻ってきつつある上に、上でも書いたように〆にがっつりと炭水化物を摂る習慣がついてしまったのでやや危機感もあることはあるんです。
だいたい3軒くらいビアバーをハシゴするとかなり酔うのですが、そうなると日頃炭水化物を我慢しているタガが外れてしまうようで、その反動もあって飲んだ後にご飯や麺をバカ食いするようなんですよ。日常生活でそれほど我慢しているという意識はなかったのですが無意識の部分でかなりストレスがたまっているのかもしれません。
翌朝、ポケットから松屋の半券やコンビニの長いレシートが出てきた時のがっかり感ときたらそりゃもう死にたくなるほど。
なんという意志の弱さかと......そして恐怖します。生活習慣病三銃士が戻ってくるのではないかと。
食生活はそんな感じで次第にヤバさを増してはきているのですが、週末のジョギングは雨が降っていない限りた二日酔いでも続けています。
走りながらグッとこみ上げてくるものがあったり、頭がガンガンしたりするとこれは果たして本当に健康的なのだろうかという疑問は湧くのですがそれでも続けているのは飲み過ぎ食べ過ぎを繰り返す自分に対する免罪符としての意味をもたせているのかもしれません。自己欺瞞。
自己欺瞞でも免罪符でもなんでもいいけどとりあえず3月は28.9km走りましたし、今月もすでに29.9km走っていますから自分で自分を褒めてあげたい。お祝いに美味しいビールを一杯やりた(ry
断糖ダイエットって効果的っぽいけどやめるとすぐにぶくぶくと太るんじゃないの?って心配な方もいるんじゃないかと思います。
それについては、糖質制限することを完全にやめて炭水化物を毎日食い散らかせば、たぶんすぐに元に戻るだろうとは思いますが、適切な方法でそれなりに体重を落とした後ならば、適当に手を抜いたなんちゃって糖質制限時々暴飲暴食状態でもなんとか健康な状態を保つことができるんだなって感じです。
あくまでも個人の感想ですし今後もまだまだ油断できない状況ではありますが。
少なくとももう少しクラフトビールの飲み歩きを減らそうと思いつつ、一番の課題は〆の炭水化物に手を出さないことだと思っています。食べてる時は幸せなんですが翌日は本当に落ち込むんで。そんな朝はとてもダメな自分を愛せませんから。
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[ま]シュレディンガーの哲学する猫/僕には圧倒的に思考する言葉がたりない @kun_maa
有名な「シュレディンガーの猫」というのは、量子論の考え方に納得していなかった物理学者シュレディンガーが考えた思考実験のことだ。
その思考実験とは次のようなものである。
閉ざされた鉄の箱の中に猫が入っている。
その箱の中には毒ガス発生装置が一緒に入っていて、放射性物質に繋がっている。もし放射性物質が原子核崩壊を起こせば毒ガスが発生して箱の中の猫は死ぬ。原子核崩壊を起こさなければ毒ガスは発生せず猫は無事。
1時間後にこの放射性物質の原子核崩壊が起こる確率は50%であるとした場合、量子論の考え方にしたがえば箱のふたを開けて確認しない限り箱の中にいる猫は「生きている状態」と「死んでいる状態」が同時に絡み合って併存しているということになるというものだ。生きている状態と死んでいる状態が同時に存在するなんて、普通に考えたら明らかにおかしい。
本書にはそんな量子論への問題提起を行った思考実験に登場する「シュレディンガーの猫」が登場し、この猫に有名な哲学者が憑依する。
各章はそれぞれの哲学者たちの解説と、シュレディンガーの猫と主人公の物語という2部構成となっていて、とてもとっかかりやすい。
いわゆる掴みはOK!ってやつだ(かなり古いな...)。
本の中で取り上げられている哲学者たちはウィトゲンシュタイン、サルトル、ニーチェ、ソクラテス、レイチェル・カーソン、サン=テグジュペリ、ファイヤアーベント、廣松渉、フッサール、ハイデガー、小林秀雄、大森荘蔵というそうそうたる面々。
したがって、とっかかりやすいとはいっても簡単に理解することはできない。それとこれとは別問題だ。加えて解説部分についてもすべてを解説するつもりが著者にはないらしく、それがよけい理解を困難にしている。
一応科学哲学の入門書のようだが、どうやら著者の意図は単なる入門書として終わらせるつもりはないらしい。そこかしこに見え隠れする「理系と文系の融合」の大切さ。
どちらかだけでは正しくものを捉えることは不可能であり、特に偏った科学至上主義が招く弊害について、哲学をとっかかりとして読者に知らしめようとしているのではないだろうか。科学的でないものを切り捨てる不寛容さと、そうではない真の知性とはなにか。そんなことを伝えたかったのではないだろうか。
そう考えると、タイトルに「シュレディンガーの猫」と「哲学」を合わせている意味が、なんとなくわかるような気がしてくる。
それとともに本書で取り上げている哲学者の中に、レイチェル・カーソン、サン=テグジュペリ、ファイヤアーベントが入っている意味が見えてくる。
さらにもうひとつの重要なメッセージは「行動すること」。
これは実存主義の「アンガジュマン」の重要性であり、サルトルが遺した「百万人の飢えた子供たちにとって文学は何の意味があるか?」「夢をもたないで、自分にできることをする」という言葉にまさに託されている。
小難しく考えているだけが哲学ではないのだと。
ウィトゲンシュタインは言う。「私の言語の限界は、私の世界の限界を意味する」と。
僕が本書から読み取ったと思っているものは、僕の言語の限界によって規定されているに過ぎない。それが僕の世界の限界だ。
深く思考するするためには、あまりにも僕には言葉が足りない。それこそ圧倒的に足りない。もっと多くの言葉がなければ現状を突破することはできない。本書を理解することも、自分の思いを表現することもできない。
本書はそんなことをあらためて僕に思い知らせてくれた。
実におもしろい。
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[ま]映画「凶悪」/実際の事件を基にした人間の心の闇を思い知らされる作品 @kun_maa
本作品のモデルとなった事件は死刑囚がまだ明るみに出ていない余罪、3件の殺人を雑誌記者に告白したことがきっかけとなった「上申書殺人事件」である。その顛末を綴ったのが「新潮45」編集部の「凶悪ーある死刑囚の告発」だ。
映画の中では「新潮45」が「明潮24」という設定になっていてあくまでもフィクションとして制作されてはいるのだが、まさに「凶悪」としか言いようのない事件を基にしていることがこの作品に凄みを与えているのは確かだ。
それに加えてキャスティングが素晴らしい。
事件を追う雑誌記者に山田孝之、元暴力団幹部で死刑囚の須藤にピエール瀧、そして「先生」と呼ばれる悪徳不動産ブローカーを演じているのがリリー・フランキーである。この面子が揃っていて面白くないわけがない。
物語はいきなり壮絶な暴力シーンから始まる。ピエール瀧の演技がキレキレで100%極道。あの巨体と笑わない目で「てめー、今からぶっこんで(ぶっ殺して)やるからよ」って呟かれたら誰でもビビる。
最初からそんなふうにガツンとかまされて、わけもわからないまま「凶悪」な暴力の中に放り込まれることで戸惑う観客をまるでおもしろがるように、残酷な描写の断片が冒頭で展開される。須藤が逮捕されてようやくタイトル浮かび上がってくるのだが、逮捕シーンでアップになるピエール瀧の凶悪さ爆発な表情がまさに凶悪そのものである。
冒頭にはいきなり驚かされるが、その後のストーリーは静かに淡々と進んでいく。
「明潮24」の編集部に届いた須藤という死刑囚からの手紙。それを担当させられた山田孝之演じる藤井が刑務所に面会に赴くと、須藤から「自分があれだけのことをやって死刑になるのはしょうがないが、どうしても許せない男がシャバにいる。自分のことを記事にしてそいつを追い詰めてほしい」と言われる。
その男こそが、須藤がかつて慕っていた「先生」と呼ばれる木村である。最初は須藤の記憶が曖昧で全く信用していなかった藤井だが取材を続けるうちに......
須藤と木村の過去と現在の藤井の取材シーンが交錯しながら同時に進んでいくのだが、この展開がまた絶妙である。
須藤と木村の凶悪さがどんどん際立っていくのと同時に、藤井は真実に辿り着くための取材に取り憑かれていく。
須藤の凶悪さは主にその暴力性に現れているのだが、リリー・フランキー演じる木村の凶悪さはその無邪気な表情にある。楽しそうに人を嬲り、心の痛みひとつ感じずに殺せる男が木村だ。
二人とも表現は違っても、人間の心に潜む「凶悪」さを見事にえぐり出してこれでもかと見せつけてくる。ここまで人は残酷になれるし、そんな残酷さは誰もが持っているものなんだよとあざ笑うかのように。
取材を重ねて変わっていく藤井の様子にも注目してほしい。
「正義」という大義名分を振りかざし事件に取り憑かれていく彼の姿。自分の置かれた現実からは目を背け、大義に根ざした拳を振り上げるかのようなその執拗な行動。
しかしそれこそがこの事件に根ざしている「凶悪」さの根につながっているものなのかもしれない。
そんなことをこの映画を観終わって感じた。
この作品同様に、現実の凶悪な犯罪をベースにした映画に園子温監督の「冷たい熱帯魚」がある。
この作品もかなりエグい表現満載で好きなのだが、「冷たい熱帯魚」の殺人者が見せる知っていてあえて道徳を踏みにじる確信犯的な振る舞いに対して、純粋に無邪気な子供のように平然と人を殺していくこの作品の登場人物の方により人間の心の闇と恐怖を感じる。
暴力シーンなどを全く受け付けないという人にはその凶悪さ故におすすめできないが、ある程度の暴力的さならば大丈夫で、社会派作品が好きという人や山田孝之、ピエール瀧、リリー・フランキーの演技が好きな人には絶賛おすすめの作品である。
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[ま]高僧とタイのお守りプラクルアン @kun_maa
しばらくタイに行けてないのでマイブームのピークは過ぎてしまった感はありますが、それでも優に100個以上のタイのお守りプラクルアンを持っています。罰当たりなことに最近ではかなり埃をかぶってしまっていて、もしかしていろんなことがうまくいかないのはプラクルアンを粗末にしているからではないかとこれを書きながらハッとしているところです。
高僧の髪の毛を使っているもの
高僧の髪の毛を練り込んであるもの
高僧が身につけていた袈裟でつくられたもの
高僧の写真を使ったもの
高僧の遺骨が練り込んであるもの
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[ま]自分が死んでいることに気がつかない @kun_maa
まだ学生の頃、住んでいる町の小さな学習塾で講師のアルバイトをしていた。
学習塾と言っても大手のように立派な教室があるわけではなく、借り上げた民家の部屋が教室代わりというとてもこじんまりとした塾で生徒数もそれほど多くはなかった。
どちらかというと進学塾というよりは、あまり勉強が得意ではない子をターゲットにした補習塾のようなものだ。それほど学習レベルが高くないので僕でも講師が務まったくらいなんだから。
講師は全員が当時の僕のように大学生だった。本業で教えているのは経営者である塾長くらいのものだ。この塾長が少し変わっていて、見た目は外国人と日本人のハーフのような英語教師なのだが彼の操る英語はお世辞にもネイティブの発音とは程遠いものだった。そして、元教え子だという男をよく塾に連れてきていた。その男は講師をやるわけでもなく一体なんでいつも塾にいるのかわからない不思議な存在だったのだが、今にして思えば塾長もその男もちょっとゲイっぽかったので愛人だったのかもしれない。
この塾にはそんな塾長の男の愛人(おいおい決めつけたよ...)の存在以外にも不思議なことがあって、玄関には必ず盛り塩がしてあり、いたるところにお札のようなものが貼り付けてあった。最初は受験生用のゲン担ぎか何かだと思っていたのだけれど、いくら何でもやりすぎな感じがあって、それにそのお札が合格祈願というよりは魔除けのような不気味な感じもしていて少し怖かったんだ。
長くバイトをしている先輩講師に何となく聞いてみたときには、少し慌てたように不自然なごまかし方をされたので、あまり話題にしてはいけないことなのかもしれないと思い、なんとなくそれ以上誰かに理由を聞ける雰囲気ではなくなってしまったんだ。
その後も特に何か不思議なことが起きるわけでもなく、次第に男の愛人の存在もお札のこともあまり気にならなくなっていった。
ところがアルバイトを始めて半年ほどしたある日、塾長主催の飲み会でのことだった。
それまでも時々、塾長主催でアルバイトにご馳走をしてくれる飲み会があったのだけど、その日はいつもとちょっと様子が違った。
最初は普通に飲んでいたのだが、ちょっと話しておきたいことがあると塾長が真面目な顔で口火を切った。
それは以前、講師のアルバイトしていた男子学生の話だった。
とても優秀な学生だったらしくて、生徒たちからの評判も講師仲間からの評判も良かったそうだ。同じ講師のアルバイトの女子学生と付き合っていて、それはもう塾の中でも公認の仲睦まじいカップルだったという。
そんな彼が通学途中にバイクで事故って突然亡くなった。ほぼ即死だったらしい。
それから塾に不思議なことが起こり始めた。
誰もいないはずの教室の電気が点いたり、閉めたはずの玄関が開いていたり、生徒が突然具合が悪くなったり、誰もいないトイレから音がしたりとどうも様子がおかしい。
そして死んだ彼と付き合っていた女子学生が塾で彼を見たと言って倒れてしまった。
あまりにも不思議なことが続くので心配になった塾長が霊媒師に相談したところ、バイク事故で即死した彼が自分が死んだことに気づいてないため生前のように塾にきているのだといわれたらしい。そう言われれば確かに不思議なことは生前の彼のシフトの日に限って起きていた。
その霊媒師が信用できるのかどうか、どういう方法でお祓いをしたのかは僕には知る由もなかったが、とにかく塾にあった彼の私物は全て処分されて何らかのお祓いらしい儀式も執り行ったようだ。
それ以来塾の玄関には欠かさず盛り塩をし、お札を貼りまくったのだそうだ。その後不思議なことは起こっていないというが今ひとつ歯切れの悪い言い方に僕はまだ終わってないんじゃないかという疑念を抱いた。
その当時も一人で塾に残ることは禁止されていた。
最後の戸締りなどは必ず2人以上で行うように僕がアルバイトをしていた時にも徹底されていた。単に防犯上のためかと思っていたのだがそうではなく心霊現象を心配した上でのことだったというわけだ。
彼が死んだのは、僕がアルバイトで働き始める2年ほど前のことらしい。そのうち塾長から説明をするから新しいアルバイトには聞かれてもごまかすようにと事前に事件のことを知っている講師たちには箝口令がしかれていたのだ。
その不思議な話を聞いた後、僕は授業中に時々何かがそばにいるような不思議な雰囲気を感じたことがあったのだけど、きっとそんな話を聞いたからなのだと思う。気にしすぎのビビりってやつだ。だいたい僕には霊感ってやつがないのだから。
それにしても自分が死んだことに気がつかないってどんな感じなんだろう。
誰からも無視されて不思議に思うのだろうか。
もし友人や恋人みたいな親しい人が近くにいなくて、普段からほとんど誰とも関わりのない生活をしている人が突然死んだら、自分が死んだことに気づくチャンスはあるのだろうか。
あなたは自分が確かに生きているんだと自信をもって即答できるだろうか。その根拠を示すことができるのか。
僕はどうだ。僕は本当に生きているのか。その根拠は何だろう。もしかして僕が現実に生きていると思っている世界の全てが死人や死んだものだけで構成されているのだとしたらどうだ。眠っている間に核ミサイルが落ちてみんながみんな死んでいることに気がついていなかったとしたら......
そういえばこの人も自分が死んでいることに気がついてないのではないだろうか。
先日、久しぶりに塾のあった場所を訪れた。そこにはすでに以前の建物はなく、別の家があって知らない人たちが住んでいた。
あの塾がどうなったのかは知らない。
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