実家で飼っていた犬が死んだ。
首都圏に久しぶりの大雪が降った日の夜、彼を一番可愛がっていた母に看取られながら眠るように静かに逝ったと聞いた。
ここ半年くらいの間にすっかりヨボヨボになってしまい廊下で転んだり階段から落ちたり視力も落ちて壁にぶつかりまくっていたりしたので心配はしていたのだけど。
ほんの数日前に親から彼が寝てばかりいてどうもそろそろいけないらしいとは聞いていたのだが僕は見舞うこともしなかったんだ。
最後に会ったのはいつだっただろうか。
実家で父と酒を飲んでいたときなのは覚えているがそのときの彼の表情や仕草を僕はうまく思い出すことができない。
お前のことを忘れていたわけじゃないんだけどな...と言い訳がましくつぶやきながら僕は布団に横たわる彼を見つめていた。
親が用意した線香をあげながら彼との思い出を辿ろうとしてみたけれどやはりそれはうまくいかなかった。
宙ぶらりんに取り残された澱のようなもどかしさを苦々しく思いながら僕はこれから寂しいって思うのだろうか、思い出して泣いてしまうのだろうかとどこか他人事のように感じていた。
近所のおじいさんが死んだ。
半年前から入退院を繰り返していたのだが今回は戻ってくることなく逝ってしまった。
葬儀の列には知らない顔ばかりが並んでいた。
元気な時にはいつも通りに面した庭先で植木の手入れをしていたから、子供の頃から挨拶だけはよく交わしたものだ。
最後に挨拶を交わしたのはいつのことだったのか、僕は思い出そうとしたがやはり覚えていなかった。
眩しそうに目を細めながらにこやかに「おはよう」や「お帰り」と声をかけてくれるおじいさんの映像と声が思い浮かんだのだけどそれはとても昔の僕がまだ小学生の頃のものに違いなかった。記憶が混迷する。
棺桶に横たわるおじいさんの顔はとても色艶が良くてまるで生きている人のようだった。顔がとても小さくなってしまったし僕が知っているおじいさんとは別人の顔に見えた。あれ...僕が覚えているおじいさんの表情はずっと昔のものばかりだ。
おじいさんが亡くなったという連絡をもらうまで彼のことをすっかり忘れていた。
相手が死ななければ別れをいうこともできない自分がとても不甲斐なく、そして偽善的に思える。
とうの昔に終わってた。
おじいさんと本当に別れたのはいつだったのだろう。いつ別れを告げるべきだったのだろうか。
僕は言うべき時に何も言わずに過ごしてきた自分に苛立ちを覚えて目を瞑った。
僕は犬にもおじいさんにも不誠実だ。
さよならひとつも満足にできないで。