映画「散歩する侵略者」を観てきた。主演は長澤まさみ、松田龍平、長谷川博己。
このタイトルがいいよねって思ったからほぼタイトル買い的な無計画な鑑賞。
だって普通「散歩」と「侵略者」って言葉が結びつかないよね。
このタイトル考えた人ってすごいと思う。
のんびりとした日常性と非日常的なシビアさを合わせたこのタイトルのように、侵略者はその存在の不穏さとは裏腹にごく自然に日常生活の中に入り込んでくる。
この作品はいわゆるボディ・スナッチャー的な宇宙人による地球侵略のお話。
でも過去のその手の作品にありがちな体を乗っ取った宇宙人が無尽蔵に増えていったり、乗っ取られた人が死んでしまったり、乗っ取った宇宙人による殺戮が始まったりということはない。
作品に登場する侵略者もたったの3人だ。
体を乗っ取られた人物の人格は眠らされたような状態になっているだけで宇宙人とその人物の人格が次第に混在するかのような場面も見られる。
登場する侵略者の大きな特徴は地球侵略のための準備として人間の頭の中の「概念」を奪い取ることだ。
それは侵略する相手である人間を知るための行為なのだが、人が言葉だけでは言い表せないことについてイメージを膨らまさせて頭の中の「概念」を抜き取る。
「概念」を抜き取られた人からはその「概念」が永久に消えてしまうため人格に大きな影響を及ぼすことになる。
抜き取るといってもやっていることは額に人差し指を当てるだけなので、その行動自体はなんということもないのだが多くの「概念」を抜き取られた人間は人格が崩壊してしまう場合もあり、そんなことはお構いなしに淡々と人々から概念を抜き取っていく侵略者の行動はある意味恐怖だ。
きっと多くの概念が抜き取られたのだろうが作品中で名前が挙がったのは「家族」「所有」「仕事」「自分」「他人」そして「愛」。
別人のようになって帰ってきた夫の真治(松田龍平)と彼に戸惑いながらも共に過ごす妻・鳴海(長澤まさみ)の夫婦のパートと、宇宙人を名乗る不思議な若者を不審に思いながらも行動を共にするジャーナリスト桜井(長谷川博己)のパートが交互に描かれながら静かに侵略の瞬間に向けて物語は進行していく。
そして二つのパートが交錯してからの急展開はなかなかの見ものだ。
作品の中では「愛」について考えされられる場面が幾度となく描かれている。「愛」が前面に出ていないような場面でもよく考えると「愛」について描いている場合が多いように感じた。
愛の反対は憎しみではなく無関心とはよく言ったもので、そんな言葉を頭の片隅に置きながら作品を観ていると「ああ!」なんていうアハ体験をすることができるかもしれない。
散歩する侵略者によって人間の「概念」は奪い尽くされてしまうのか。
地球侵略の行方はどうか。三人の主人公の運命は...人類は...
宇宙人による異色な侵略物語の結末を見逃すのはとても惜しいと僕は思う。もし気なったのなら劇場に足を運んでみてはどうだろう。
そしてこの作品は侵略を通して「愛」を描いた作品でもある。
その「愛」も是非感じ取って見届けてほしい。
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