[ま]コミュニケーションはいらない/辛口の日本人論 @kun_maa
コミュニケーションの基本は言うまでもなく「言葉」にある。
言葉=言語とは文化そのものであり、それは歴史に裏付けられている。
だから、歴史の裏付けを持たない言語は空虚なものとなる。
歴史の裏付け=共通の文化を有しない空虚な言語にコミュニケーションの基本となる「言語空間」を形成することはできない。
そして、「言語空間」が存在しない場所に正しい議論がなされる「言論空間」も存在し得ない。
歴史の裏付けとは社会階層の有する文化に支えられているということでもある。
今でもヨーロッパではこの社会階層による文化が言語を支えている。
日本でも戦前はある種の階層があり、それぞれの階層で固有の文化を持ち、固有の言語が存在していたという。
そこには、「男の言葉」があり「女の言葉」もあり、「山の手の言葉」があれば「下町の言葉」があり、「武士の言葉」や「町人の言葉」があった。
著者は、それが戦後の民主化の中で全て均質化されてしまったことが、日本に「言語空間」がなく、したがって「言論空間」も存在しない原因だと述べている。
「言語空間なしに日常的な言語というのは成立しない。日常的な言語なしには言論空間も成立しない。階層や性別、年齢差でわかれているからこそ、本来はそこでコミュニケーションが成立した。それをマスというカタチで均質化してしまったからわけがわからなくなってしまったのだ」(No.246)
コミュニケーションとは、それぞれの立場が明確にあって、初めてコミュニケーションたりえるのだと著者は言う。その立場を支えているのが階層や性別や年齢などでわかれていた文化であり、言語なのだ。
本書のタイトルは「コミュニケーションはいらない」だが、著者がいらないと言っているのはこのような言語空間も言論空間も存在しない場所(つまり日本)での馴れ合いのためのコミュニケーションのことであり、本来のコミュニケーションの必要性については繰り返し著書の中で述べている。
では、本来のコミュニケーションとはなにか。
著者はコミュニケーションには2種類あり、ひとつは「現状を維持するためのコミュニケーション」、もうひとつは「異質なものとつきあうためのコミュニケーション」であるとしている。そして本来必要とされるコミュニケーションとは後者を指すのである。
なぜなら、前者は「いかに問題を起こさないか」こそが重要であり、馴れ合いのためのものであり、それぞれの立場から主張を行って理解をし合うために存在するコミュニケーション本来の姿ではないからだ。
さらに、インターネット空間における「コミュニケーション」に対しても懐疑的であり、そもそもインターネットはコミュニケーションに不向きなツールだと述べている。なぜなら、ネットでの主体はいきなり個人レベルから始まり、やはり言語を支える文化である共同体を置き去りにするからである。それがネットの魅力でもあり、本来のコミュニケーションという意味では欠点でもある。
「ようするに違うレベルの共同体にコミットすることこそがコミュニケーションなのだ。では、ひるがえってネットの世界はどうか。当然と言えば当然の話だが、現実のしがらみから逃れた環境下で、あえてこんな面倒くさい軋轢を求めようとは誰も思わない。だから、一見すればネット上を自由に行き来して、個人として様々な世界にコミットしているようだが、内実は現実世界よりもさらに個人の殻の中にひきこもっているだけとなる。そして、そういうネットユーザーが個人として世界と繋がっているかのような錯覚を起こしている。ここに現在の社会が抱える大きなひずみがある」(No.333)
著者は、コミュニケーションの在り方についての考察を通して「日本人」について語っている。
福島原発事故に絡めてコミュニケーションと感情移入の違いを語り、そこに見え隠れする同調意識の気持ちの悪さや、原子力発電所をめぐる日本の歴史的背景、書き言葉の衰退と言語能力の低下、日本人の持つ独特な感情的ブレーカーと思考停止など幅広く持論が展開される。
しかし、あまりに幅広く展開されるために、思いつくままに持論を並べ立てた本のように見える。
だが、全体を通して一貫しているのは日本人に欠けている大事なコミュニケーションの姿でもある「そういう話ではないのだ」と異議を申し立てること、つまり、自分の頭で考え、正しい在り方の議論を尽くすことがいかに重要なのかということである。
辛口だけど突き刺さるものが多くあり、様々なことに気づかされる。
一読の価値があるすぐれた「日本人論」である。
このブログを気に入っていただけたら、ちょくちょくのぞきに来ていただけるとうれしいです。そして、とっても励みになります。
RSS登録していただける方はこちらのボタンをご利用ください。