[ま]ぷるんにー!(พรุ่งนี้)

ぷるんにー(พรุ่งนี้)とはタイ語で「明日」。好きなタイやタイ料理、本や映画、ラーメン・つけ麺、お菓子のレビュー、スターバックスやタリーズなどのカフェネタからモレスキンやほぼ日手帳、アプリ紹介など書いています。明日はきっといいことある。

[ま]シュレディンガーの哲学する猫/僕には圧倒的に思考する言葉がたりない @kun_maa

有名な「シュレディンガーの猫」というのは、量子論の考え方に納得していなかった物理学者シュレディンガーが考えた思考実験のことだ。

シュレディンガーの哲学する猫 (中公文庫)

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その思考実験とは次のようなものである。

閉ざされた鉄の箱の中に猫が入っている。

その箱の中には毒ガス発生装置が一緒に入っていて、放射性物質に繋がっている。もし放射性物質原子核崩壊を起こせば毒ガスが発生して箱の中の猫は死ぬ。原子核崩壊を起こさなければ毒ガスは発生せず猫は無事。

1時間後にこの放射性物質原子核崩壊が起こる確率は50%であるとした場合、量子論の考え方にしたがえば箱のふたを開けて確認しない限り箱の中にいる猫は「生きている状態」と「死んでいる状態」が同時に絡み合って併存しているということになるというものだ。生きている状態と死んでいる状態が同時に存在するなんて、普通に考えたら明らかにおかしい。

 

本書にはそんな量子論への問題提起を行った思考実験に登場する「シュレディンガーの猫」が登場し、この猫に有名な哲学者が憑依する。

各章はそれぞれの哲学者たちの解説と、シュレディンガーの猫と主人公の物語という2部構成となっていて、とてもとっかかりやすい。

いわゆる掴みはOK!ってやつだ(かなり古いな...)。

 

本の中で取り上げられている哲学者たちはウィトゲンシュタインサルトルニーチェソクラテスレイチェル・カーソンサン=テグジュペリ、ファイヤアーベント、廣松渉フッサールハイデガー小林秀雄大森荘蔵というそうそうたる面々。

したがって、とっかかりやすいとはいっても簡単に理解することはできない。それとこれとは別問題だ。加えて解説部分についてもすべてを解説するつもりが著者にはないらしく、それがよけい理解を困難にしている。

 

一応科学哲学の入門書のようだが、どうやら著者の意図は単なる入門書として終わらせるつもりはないらしい。そこかしこに見え隠れする「理系と文系の融合」の大切さ。

どちらかだけでは正しくものを捉えることは不可能であり、特に偏った科学至上主義が招く弊害について、哲学をとっかかりとして読者に知らしめようとしているのではないだろうか。科学的でないものを切り捨てる不寛容さと、そうではない真の知性とはなにか。そんなことを伝えたかったのではないだろうか。

 

そう考えると、タイトルに「シュレディンガーの猫」と「哲学」を合わせている意味が、なんとなくわかるような気がしてくる。

それとともに本書で取り上げている哲学者の中に、レイチェル・カーソンサン=テグジュペリ、ファイヤアーベントが入っている意味が見えてくる。

 

さらにもうひとつの重要なメッセージは「行動すること」。

これは実存主義の「アンガジュマン」の重要性であり、サルトルが遺した「百万人の飢えた子供たちにとって文学は何の意味があるか?」「夢をもたないで、自分にできることをする」という言葉にまさに託されている。

小難しく考えているだけが哲学ではないのだと。

 

ウィトゲンシュタインは言う。「私の言語の限界は、私の世界の限界を意味する」と。

僕が本書から読み取ったと思っているものは、僕の言語の限界によって規定されているに過ぎない。それが僕の世界の限界だ。

深く思考するするためには、あまりにも僕には言葉が足りない。それこそ圧倒的に足りない。もっと多くの言葉がなければ現状を突破することはできない。本書を理解することも、自分の思いを表現することもできない。

本書はそんなことをあらためて僕に思い知らせてくれた。

実におもしろい。  

シュレディンガーの哲学する猫 (中公文庫)

シュレディンガーの哲学する猫 (中公文庫)

 
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[ま]映画「凶悪」/実際の事件を基にした人間の心の闇を思い知らされる作品 @kun_maa

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本作品のモデルとなった事件は死刑囚がまだ明るみに出ていない余罪、3件の殺人を雑誌記者に告白したことがきっかけとなった「上申書殺人事件」である。その顛末を綴ったのが「新潮45」編集部の「凶悪ーある死刑囚の告発」だ。

映画の中では「新潮45」が「明潮24」という設定になっていてあくまでもフィクションとして制作されてはいるのだが、まさに「凶悪」としか言いようのない事件を基にしていることがこの作品に凄みを与えているのは確かだ。

凶悪―ある死刑囚の告発 (新潮文庫)

凶悪―ある死刑囚の告発 (新潮文庫)

 

それに加えてキャスティングが素晴らしい。

事件を追う雑誌記者に山田孝之、元暴力団幹部で死刑囚の須藤にピエール瀧、そして「先生」と呼ばれる悪徳不動産ブローカーを演じているのがリリー・フランキーである。この面子が揃っていて面白くないわけがない。

凶悪

物語はいきなり壮絶な暴力シーンから始まる。ピエール瀧の演技がキレキレで100%極道。あの巨体と笑わない目で「てめー、今からぶっこんで(ぶっ殺して)やるからよ」って呟かれたら誰でもビビる。

最初からそんなふうにガツンとかまされて、わけもわからないまま「凶悪」な暴力の中に放り込まれることで戸惑う観客をまるでおもしろがるように、残酷な描写の断片が冒頭で展開される。須藤が逮捕されてようやくタイトル浮かび上がってくるのだが、逮捕シーンでアップになるピエール瀧の凶悪さ爆発な表情がまさに凶悪そのものである。

 

冒頭にはいきなり驚かされるが、その後のストーリーは静かに淡々と進んでいく。

明潮24」の編集部に届いた須藤という死刑囚からの手紙。それを担当させられた山田孝之演じる藤井が刑務所に面会に赴くと、須藤から「自分があれだけのことをやって死刑になるのはしょうがないが、どうしても許せない男がシャバにいる。自分のことを記事にしてそいつを追い詰めてほしい」と言われる。

その男こそが、須藤がかつて慕っていた「先生」と呼ばれる木村である。最初は須藤の記憶が曖昧で全く信用していなかった藤井だが取材を続けるうちに......

 

須藤と木村の過去と現在の藤井の取材シーンが交錯しながら同時に進んでいくのだが、この展開がまた絶妙である。

須藤と木村の凶悪さがどんどん際立っていくのと同時に、藤井は真実に辿り着くための取材に取り憑かれていく。

 

須藤の凶悪さは主にその暴力性に現れているのだが、リリー・フランキー演じる木村の凶悪さはその無邪気な表情にある。楽しそうに人を嬲り、心の痛みひとつ感じずに殺せる男が木村だ。

二人とも表現は違っても、人間の心に潜む「凶悪」さを見事にえぐり出してこれでもかと見せつけてくる。ここまで人は残酷になれるし、そんな残酷さは誰もが持っているものなんだよとあざ笑うかのように。

 

取材を重ねて変わっていく藤井の様子にも注目してほしい。

「正義」という大義名分を振りかざし事件に取り憑かれていく彼の姿。自分の置かれた現実からは目を背け、大義に根ざした拳を振り上げるかのようなその執拗な行動。

しかしそれこそがこの事件に根ざしている「凶悪」さの根につながっているものなのかもしれない。

そんなことをこの映画を観終わって感じた。

 

この作品同様に、現実の凶悪な犯罪をベースにした映画に園子温監督の「冷たい熱帯魚」がある。 

冷たい熱帯魚

冷たい熱帯魚

 

この作品もかなりエグい表現満載で好きなのだが、「冷たい熱帯魚」の殺人者が見せる知っていてあえて道徳を踏みにじる確信犯的な振る舞いに対して、純粋に無邪気な子供のように平然と人を殺していくこの作品の登場人物の方により人間の心の闇と恐怖を感じる。

暴力シーンなどを全く受け付けないという人にはその凶悪さ故におすすめできないが、ある程度の暴力的さならば大丈夫で、社会派作品が好きという人や山田孝之ピエール瀧リリー・フランキーの演技が好きな人には絶賛おすすめの作品である。 

凶悪

凶悪

 
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[ま]高僧とタイのお守りプラクルアン @kun_maa

しばらくタイに行けてないのでマイブームのピークは過ぎてしまった感はありますが、それでも優に100個以上のタイのお守りプラクルアンを持っています。罰当たりなことに最近ではかなり埃をかぶってしまっていて、もしかしていろんなことがうまくいかないのはプラクルアンを粗末にしているからではないかとこれを書きながらハッとしているところです。

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タイのお守りは一般的にラクルアンと呼ばれます。国民の大半が仏教徒として知られているタイですが、このお守りをこれ見よがしにジャラジャラと身につけているのは最近では爺さん婆さんばかりです。
若者たちが身につけているのはあまり見かけません。つけていても控えめ。

ラクルアンとは(wikipediaより)
 
タイ社会の民間信仰においては、異常死(ターイホーン tai hong)した死者の霊が現世に未練をもち、凶悪な悪霊(ピータイホーン)となり親族や村落にさまざまな災厄をもたらすとして懼れられている。
 
そのピー(悪霊)信仰に対する人々の不安や苦悩に対処するため呪術専門家としてモーピーがおり、仏教もまた呪的サービスとしてプラパリット(護呪)、聖水(ナムモン)の撒布、聖糸(サーイシン)の囲繞(いにょう:囲うこと)、プラクルアンの護符などを提供してきた[1]
 
ラクルアンとはブッダの姿をかたどった小仏像の護符であり、日本のお守りのような身に着けやすいサイズのものである。
 
僧侶が一つ一つ祈祷を奉げて制作するもので、厄除けや現世利益に効果があると信じられており、高僧の手になるものには高値がつくこともある。
 
現代ではこのお守りに多数のマニアがおり、コレクションの対象にもなっている。タイでは数十もの専門雑誌が存在するほど一般的で身近な存在である。

このプラクルアン、仏像の形をしているものが多いのですがヒンドゥー教の神様や神木、高僧などをモチーフにしたものも多いです。
 
なぜかと言うと、このお守り文化はタイの土着信仰やヒンドゥー教と仏教が混ざり合っているというのがひとつ。もうひとつには徳の高い高僧は不思議な力を持っていると信じられていて、高僧を象ったり高僧が身につけていたものをプラクルアンにして身につけることで身を守ってくれると思われているからです。
その効力は高僧の死後も消えないと言われ、特に有名な高僧が入魂儀式を行ったお守りなどはその死後にプレミア価格がついて取引されたりします。
 
本来の仏教とは違う方向に向かったサービスとも言えますが、高僧のお守りは人気がありお寺の貴重な資金源となっているのも事実です。
 
高僧は不思議な力を持っているので、高僧が身につけていたものや髪の毛などにもその力が宿っていると考えられているのがおもしろいところ。
 
高僧のプラクルアンの実例を幾つか挙げてみましょう。
  

高僧の髪の毛を使っているもの

よく見るとお守りの表面にセロテープで髪の毛が貼付けてあります。

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高僧の髪の毛を練り込んであるもの

ちょっとわかりにくいのですが、お守りの中に高僧の髪の毛が入っています。

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高僧が身につけていた袈裟でつくられたもの

普通のお守りとは少し違いますが、高僧が着ていた袈裟を裂いて紐状にしたものです。
手首に巻いて使います。

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高僧の写真を使ったもの

写真も効力のあるお守りになります。こうなるとほとんどアイドルですね。

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高僧の遺骨が練り込んであるもの

日本人の感覚からするとかなり引いてしまいますが、このお守りには高僧の遺骨が練り込んであります。死んで骨になってもご利益の道具として使われる高僧ってちょっとかわいそうかも。

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ご紹介したものはいずれもタイでは有名な高僧のプラクルアンで、主に魔除け・厄よけとして不思議な力があると信じられています。
 
ところ変われば信仰もいろいろ。
異文化に触れて尊重するというのも楽しいものです。
 
ちなみにプラクルアンは日本でもネットで販売しているサイトがありますが、ちょっと調べるとわかると思いますがかなり高額です。
 
興味がある人は、ぜひタイを訪れて現地のお寺で手に入れることをお勧めします。
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[ま]自分が死んでいることに気がつかない @kun_maa

まだ学生の頃、住んでいる町の小さな学習塾で講師のアルバイトをしていた。

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学習塾と言っても大手のように立派な教室があるわけではなく、借り上げた民家の部屋が教室代わりというとてもこじんまりとした塾で生徒数もそれほど多くはなかった。

どちらかというと進学塾というよりは、あまり勉強が得意ではない子をターゲットにした補習塾のようなものだ。それほど学習レベルが高くないので僕でも講師が務まったくらいなんだから。

 

講師は全員が当時の僕のように大学生だった。本業で教えているのは経営者である塾長くらいのものだ。この塾長が少し変わっていて、見た目は外国人と日本人のハーフのような英語教師なのだが彼の操る英語はお世辞にもネイティブの発音とは程遠いものだった。そして、元教え子だという男をよく塾に連れてきていた。その男は講師をやるわけでもなく一体なんでいつも塾にいるのかわからない不思議な存在だったのだが、今にして思えば塾長もその男もちょっとゲイっぽかったので愛人だったのかもしれない。

 

この塾にはそんな塾長の男の愛人(おいおい決めつけたよ...)の存在以外にも不思議なことがあって、玄関には必ず盛り塩がしてあり、いたるところにお札のようなものが貼り付けてあった。最初は受験生用のゲン担ぎか何かだと思っていたのだけれど、いくら何でもやりすぎな感じがあって、それにそのお札が合格祈願というよりは魔除けのような不気味な感じもしていて少し怖かったんだ。

長くバイトをしている先輩講師に何となく聞いてみたときには、少し慌てたように不自然なごまかし方をされたので、あまり話題にしてはいけないことなのかもしれないと思い、なんとなくそれ以上誰かに理由を聞ける雰囲気ではなくなってしまったんだ。

 

その後も特に何か不思議なことが起きるわけでもなく、次第に男の愛人の存在もお札のこともあまり気にならなくなっていった。

ところがアルバイトを始めて半年ほどしたある日、塾長主催の飲み会でのことだった。

それまでも時々、塾長主催でアルバイトにご馳走をしてくれる飲み会があったのだけど、その日はいつもとちょっと様子が違った。

 

最初は普通に飲んでいたのだが、ちょっと話しておきたいことがあると塾長が真面目な顔で口火を切った。

それは以前、講師のアルバイトしていた男子学生の話だった。

とても優秀な学生だったらしくて、生徒たちからの評判も講師仲間からの評判も良かったそうだ。同じ講師のアルバイトの女子学生と付き合っていて、それはもう塾の中でも公認の仲睦まじいカップルだったという。

 

そんな彼が通学途中にバイクで事故って突然亡くなった。ほぼ即死だったらしい。

それから塾に不思議なことが起こり始めた。

誰もいないはずの教室の電気が点いたり、閉めたはずの玄関が開いていたり、生徒が突然具合が悪くなったり、誰もいないトイレから音がしたりとどうも様子がおかしい。

そして死んだ彼と付き合っていた女子学生が塾で彼を見たと言って倒れてしまった。

 

あまりにも不思議なことが続くので心配になった塾長が霊媒師に相談したところ、バイク事故で即死した彼が自分が死んだことに気づいてないため生前のように塾にきているのだといわれたらしい。そう言われれば確かに不思議なことは生前の彼のシフトの日に限って起きていた。

 

その霊媒師が信用できるのかどうか、どういう方法でお祓いをしたのかは僕には知る由もなかったが、とにかく塾にあった彼の私物は全て処分されて何らかのお祓いらしい儀式も執り行ったようだ。

それ以来塾の玄関には欠かさず盛り塩をし、お札を貼りまくったのだそうだ。その後不思議なことは起こっていないというが今ひとつ歯切れの悪い言い方に僕はまだ終わってないんじゃないかという疑念を抱いた。

その当時も一人で塾に残ることは禁止されていた。

最後の戸締りなどは必ず2人以上で行うように僕がアルバイトをしていた時にも徹底されていた。単に防犯上のためかと思っていたのだがそうではなく心霊現象を心配した上でのことだったというわけだ。

 

彼が死んだのは、僕がアルバイトで働き始める2年ほど前のことらしい。そのうち塾長から説明をするから新しいアルバイトには聞かれてもごまかすようにと事前に事件のことを知っている講師たちには箝口令がしかれていたのだ。

その不思議な話を聞いた後、僕は授業中に時々何かがそばにいるような不思議な雰囲気を感じたことがあったのだけど、きっとそんな話を聞いたからなのだと思う。気にしすぎのビビりってやつだ。だいたい僕には霊感ってやつがないのだから。

 

それにしても自分が死んだことに気がつかないってどんな感じなんだろう。

誰からも無視されて不思議に思うのだろうか。

もし友人や恋人みたいな親しい人が近くにいなくて、普段からほとんど誰とも関わりのない生活をしている人が突然死んだら、自分が死んだことに気づくチャンスはあるのだろうか。

あなたは自分が確かに生きているんだと自信をもって即答できるだろうか。その根拠を示すことができるのか。

僕はどうだ。僕は本当に生きているのか。その根拠は何だろう。もしかして僕が現実に生きていると思っている世界の全てが死人や死んだものだけで構成されているのだとしたらどうだ。眠っている間に核ミサイルが落ちてみんながみんな死んでいることに気がついていなかったとしたら......

 

そういえばこの人も自分が死んでいることに気がついてないのではないだろうか。 

kun-maa.hateblo.jp

 

先日、久しぶりに塾のあった場所を訪れた。そこにはすでに以前の建物はなく、別の家があって知らない人たちが住んでいた。

あの塾がどうなったのかは知らない。

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[ま]映画「シン・レッド・ライン」/美しい映像と詩的な独白で戦争を描いた異色な作品 @kun_maa

久しぶりに「シン・レッド・ライン」(1998年アメリカ映画)を観ました。
あらためてキャスティングの豪華さに感嘆。
ストーリーも意外と忘れているものですな。いや決して歳のせいではないですよ。

シン・レッド・ライン オリジナル・サウンドトラック

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<あらすじ>
 アメリカ陸軍C中隊に属する二等兵ウィット(ジム・カヴィーゼル)はメラネシア系原住民に魅せられたかのように無許可離隊を繰り返していた。そんな彼を歴戦のつわものであるウェルシュ曹長ショーン・ペン)は看護兵に配属した。
 さて、C中隊を率いるたたきあげの指揮官トール中佐(ニック・ノルティ)は、クィンタード准将(ジョン・トラヴォルタ)の見守る前で兵士を上陸させる。日本軍の守備隊がたてこもる内陸の丘の攻略にかかる中隊だが、敵の銃火の下、ケック軍曹(ウディ・ハレルソン)はじめ兵士たちは次々に命を落とす。焦るトールの強引な突撃命令を、中隊長のスターロス大尉(エリアス・コーティアス)は部下を無駄死にさせたくないと拒絶した。
 結局、丘は戦場にあっても故郷に残した美しい妻(ミランダ・オットー)の面影を胸に戦い続けるベル二等兵ベン・チャップリン)の決死の偵察とガフ大尉(ジョン・キューザック)指揮の攻撃部隊の活躍でみごと陥落。トールはさらに奥の日本軍の本拠地も攻め落とさせた。作戦に成功した中隊だが、トールは命令に背いたスターロスを解任した。
 ひとときの休養の後、進軍を再開した中隊は今度はジャングルの中で日本軍に遭遇。看護兵から一兵卒に復帰していたウィットは自ら申し出て仲間3人で斥候に出たが、部隊をかばおうとして日本軍に包囲され命を落とした。ウェルシュは彼の墓の前にひざまづく。
 スターロスに代わり新たな中隊長のボッシュ大尉(ジョージ・クルーニー)が赴任したが、戦闘はなおも続く。ウェルシュやベルは様々な思いを胸に島を離れるのだった。
(goo映画から引用)

戦争映画は数多くありますが、あまりにも戦争の悲惨さや狂気を描くことに重点を置きすぎたり、真摯に描いている風を装って兵士の英雄譚になっていたり、ひどいものはマッチョなアメリカ兵が大暴れするというものが大半。偏見かな。

 
そういう戦争映画たちもそれはそれで楽しめるのですが、この作品は冒頭から太平洋の島の美しい風景と住民の平和な生活を映し出すというちょっと戦争映画としては異色始まり方の映画です。
最初のシーンだけを観ていると「あれ、これって戦争映画だったよね...?」って混乱します。
 
戦場にあっても国に残してきた恋人との日常シーンの回想や詩的な独白の挿入。
 
また、美しい草原や丘陵、ジャングルの野鳥や動物、住民の映像などが折々に触れて効果的に使われることで、戦場でありながら戦闘シーン一辺倒にならず、戦争における見え透いた狂気に染まることなく淡々と戦争と兵士の日常を描いていくという印象です。

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個々の兵士は様々な問題を抱えながらも理不尽な戦争の中で命令に従い、ある者は怯え、ある者は勇気を振り絞り、ある者は相手を殺したことに罪を覚え、そして多くの者は死んでいきます。
 
無謀な作戦に対して異を唱えて解任される中隊長の理由は「部下を死なせたくない」という戦争の論理から外れた人としてはすごく真っ当なものです。
 
戦場でありながら説教臭くならずに真っ当な人間の心を描こうと試みているところは好感が持てます。でもこうやって文字にした途端に胡散臭い偽善臭がしてしまうのは残念至極。
 
ドンパチやり合う派手な戦争映画好きな方には物足りないかもしれませんが、ちょっと異色な戦争映画としてこういう描き方もありかなって思いました。
 
まあ、それでもやっぱりアメリカ映画なんで日本兵の描き方にちょっと不満が残りますけどね。
それでもこの手の映画の中では誠実に描いている方ではないかなとは思いました。
 
たまにはこういう詩的な戦争映画もいいものです。 
シン・レッド・ライン [DVD]

シン・レッド・ライン [DVD]

 
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[ま]コードネーム・ヴェリティ/謎めいた告白に隠された巧妙な伏線にうなる傑作ミステリ @kun_maa

第二次世界大戦中のナチス占領下にあるフランスのとある街で、スパイとして捕虜となった若い女工作員とその親友である女性飛行士の友情と戦争を背景にした上質なミステリ。まずタイトルがかっこいい。

コードネーム・ヴェリティ (創元推理文庫)

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ナチスの尋問に対して、拷問を受けない代わりにイギリス軍に関する情報を手記として書き綴ることを強制された名前も明かされない女性工作員。その手記の内容は彼女自身のことではなく、なぜか親友である女性飛行士のことを書いた小説のように見える。


なぜ彼女は自分が置かれた捕虜としての緊迫した状況の中で親友のことを書き綴るのか。その目的は何か。同じ捕虜から裏切り者の汚名を着せられ軽蔑されながらも次々と重要な情報をナチスに知らせる彼女。

告白のために彼女に与えられた時間は限られており、その後に待つ過酷な運命が暗に仄めかされて気が抜けない。夜と霧......


その小説のような手記が書き上げられるまでが、謎めいた不思議な雰囲気の中で進んでいく第一部。
読者には尋問者であるSS親衛隊大尉と同じ情報(つまり彼女の書いた手記)だけが与えられる。
捕虜として書くことを強制されているという暗さや残酷な描写はあるものの、ふたりの友情について語られる回想部分がまるで青春小説のようでもある第一部は難解で冗長な部分も多いのだが、読者はその告白文の描き出す世界に次第に取り込まれていく。


時にはその冗長さ故に焦ったくなることもあるかもしれないが、そこをこらえて彼女の小説調の告白世界に深く入り込むことで、次のがらりと雰囲気が変わる第二部が生きてくる。第一部で書かれていたことが本当の意味で理解でき、そこに巧妙に隠されていた真実がじわじわと明かされていく快感を存分に味わうことができるだろう。


なんということもなく書かれていたと思い込んでいた第一部の文章の中に、巧みに張り巡らされていた伏線。それらがしっかりと回収されて真実の姿が浮かび上がってくる素晴らしさに感嘆するのは一見地味で暗鬱な第一部があればこそである。

見事な伏線とその回収の巧みさは、まさに本の帯に書かれていた次のようなキャッチフレーズのとおりでありその点ではすぐれたミステリ作品である。

帯にはこのように書かれている。

「謎」の第1部。「驚愕」の第2部。そして、「慟哭」の結末。

 

さらに本書の凄さは傑作ミステリというだけではなく、それと同時に戦争という理不尽なものに飲み込まれて歯車が狂ってしまうふたりの少女の友情と勇気の物語でもあり、戦争と女性をテーマにした歴史小説としても楽しめるところにある。

本作品にはそのように多様な面があり多面的な楽しみ方ができる。

しかしどのような読み方を楽しんだとしても、最後に読者は切なくてほんのりと苦いしこりのような心の疼痛と微かな希望を見出すことになるだろう。

そんな不思議な物語だった。 

コードネーム・ヴェリティ (創元推理文庫)

コードネーム・ヴェリティ (創元推理文庫)

 

 

本書は「本が好き!」から献本いただきました。

www.honzuki.jp

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