[ま]人を消費するなかれ人から消費されることなかれ @kun_maa
僕は毎日多くのモノを消費している。使い捨てている。
そこにはモノが「そのモノ」であることの所以や意義について想いを馳せることもなければ「そのモノ」についての思い入れもない。
消費は言語活動であるとして人々が大量消費社会の中でモノそのものではなく記号としてのモノを消費しているのだと指摘したのはフランスの社会学者ジャン・ボードリヤールだった。
彼の指摘どおり僕は多くのモノが表象する異なる記号を消費している。
モノの存在を時間軸の視点で捉え直せばあるモノの記号を消費するということはそのモノの持つ時間を消費することと同義だ。
だからお気に入りのモノはその時間を消費するのではなく原材料である過去から目の前のモノである現在、そしてこれからの未来について想いを膨らませることができる。
そのモノと共に過ごした時間が記憶となり思い出となり人生となる。僕という人間を形成する成分の一部となる。
消費するだけのモノは記憶にも残らず人生の一部となることもない。
そんな僕は多くの人に対しても同じように接してきたのかもしれない。
他人の表面的、即時的な面だけを対象としてその人の時間をただ消費するだけの関係性。それは相手に対する愛も慈しみもなく責任も持たずただその時々の必要性に応じて誰かの持つ時間を消費し使い捨てるような関係だ。
その人の人間性とか過去とか未来とかその人がその人である所以とか意義とかそんなものは関係なく消費し尽くすだけの関係。
記憶にも残らない想い出にもならない人間疎外。
僕は周りの人たちを一方的に消費するだけの強者ではないから僕も誰かに消費されているってのが世の理。
誰かの記憶にも残らないような消費されるだけの関係も僕の想い出にもならないような誰かを消費するだけの関係ももういらないうんざり。
モノも人も時間の中にしか存在しえないことに対して僕はもっと敏感になるべきなのかもしれない。
そんなことを考えながらいつも陥る思考停止人間不在。
それでも言いたいことは人を消費するなかれ人から消費されることなかれ。
まだまだ思考が足りない物足りない支離滅裂じゃないかい。ごめんなさい。
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