[ま]村に火をつけ、白痴になれ 伊藤野枝伝(栗原康 著)/欲望全開!ゲスで上等 @kun_maa
伊藤野枝という女性活動家が大正時代にいたことを知っている人はどれくらいいるのだろうか。
彼女はいわゆる「アナキスト」として大杉栄らとともに活動した女性活動家である。アナキストなんて言葉ももうほとんど死語みたいなもんだから知らない人もいるかもしれないけれど日本語にすると「無政府主義者」。なんか教科書の片隅で見かけたような気もするでしょ?
彼女は無政府主義者だから、国家権力やその根本となる家制度や古くからの因習などをことごとく否定し、自分を縛ろうとするすべての権威や制度から逃れて自由になろうとする。それも現代社会じゃなくて大正時代にだぜ。これはすごい。
本書に書かれているのはそんな伊藤野枝の28年間にわたる女性を縛り付ける多くのものごとに対する自由を勝ち取るための戦いと爽快なほど疾走していった彼女自身の人生である。
彼女が自分の人間として女性としての自由を勝ち取るために挑んだのは結婚制度であり、自由恋愛であり、雑誌「青鞜」における「貞操論争」、「堕胎論争」、「廃娼論争」に代表される抑圧された存在としての女性の真の解放なのである。
その活動は決して理論的な行動とは呼べなかったのかもしれない。
しかし何がなんでも好きなことをやってやるという気概に裏付けられた彼女の行動の数々は、性別だとか制度だとか道徳だとかに縛られず、本当は人は好きになった相手と思うままにつきあった方が幸せなんじゃないかってことを思い出させる。
不倫だの人でなしだのろくでなしだのというレッテルを貼って嘲られるのが本当の姿なのだろうか、それが自由なのだろうかということをもう一度考えさせられる。
なにがなんでも、好きなことをやってやる。本がよみたい、勉強がしたい、文章をかきたい、もっとおもしろいことを、もっとするどいことを。それをやらせてくれるパトロンを、友人を、恋人をじゃんじゃんつくる。代準介、辻潤、平塚らいてう、大杉栄などなど。恋人だってほしいし、セックスだってたのしみたい。子どもだってつくってやる。うまいものをたらふく食べることだって、あきらめない。
慣習や結婚制度や社会道徳などのあらゆる束縛から自由になろうと駆け抜けたアナキスト伊藤野枝の鮮烈な生涯に心惹かれる。
スキャンダルに対する社会の反応というものは、その呼び方がゲスだとかなんとか変わったとしても今も昔も変わらないのだなあという閉塞感と、自由を破滅的に求め続けた野枝の人生の輝きに羨望を覚える。
こんなすごい女性がいたことを多くの世間体に悩める人に知ってほしい。
そして彼女らを虐殺した時代の空気は、薄まり形を変えて今も確実に日本に漂っていると思うとやはり僕は気が滅入るのだ。
著者は最後に次のように書いている。
いま野枝が生きていたら、なんというだろうか。おそらく、むかしとおなじことをいうだろう。もしも家の呪縛にとらわれているのなら、自分の身がみえなくなるまで、真っ暗な闇へと突っ走っていけ。逃げろ、もどるな、約束まもるな。そして好きなだけ本をよみ、好きなだけうまいものを食って、好きなだけセックスをして生きるのだと。もしかしたら、そんなことをいっていると、いやいやそれじゃ生きていけなくなるよというひともいるかもしれない。でも、野枝だったらこういうだろう。おちついてまわりをみてください。だいたいなんとかなっているでしょう。無政府は事実だと。貧乏に徹し、わがままになれ。
最後は憲兵隊に虐殺されてしまった野枝の人生に思いを馳せながら僕は現代の憲兵隊的なものを蔑む。
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