僕たちの生きている世界では過去はすでになく、未来はまだ存在せず、今はその瞬間だけそこにあるけどすぐに過ぎ去ってなくなる。
だから僕は過去を振り返らず、未来を憂うことなく今この瞬間を大事に生きたいと思っているんだ。それはある意味で刹那主義。
以前にもこんなことを書いている。
基本的に考え方はずっと変わらないようで、読み返してみてもいま考えていることと同じようなことを書いている。ブレないなあ。
既に過ぎ去った過去や、これから訪れる未来を思い煩ったところで仕方がないということは周知の事実。
それらは自分の意志や努力だけで変えられるものではないし、すべてのことを自分でコントロールできない以上、いわゆる「幸せ」なんてものは、今だけに注目する「刹那」の積み重ねでしか得ることはできないはずです。
過去は絶対に変えられないし、未来だって確実に自分の思いどおりにはならないのですから。
今を精一杯生きること、つまり「刹那主義」で生きることで人は「幸せ」を手にすることができます。たぶん。
ところが今日仕事中にフッと思ったんだ。
もしかして過去は視座を変えればそこに存在しているんじゃないかってことを。
そんなこと考えてないでちゃんと仕事に集中しろって話なんだけどね。全然今を大事にしてないじゃねーかと。でも考えちゃったものはしょうがない。妄想は膨らむ膨らむ。
それは例えば過去は人の記憶に残っているんだぜ!とかそういう意味じゃなくて、自分でもちゃんと整理できてないんだけど、空間的というか距離的というかなんかそんな感じの話。
光の速さは秒速29万9792.458kmってもう速すぎてなんだかよくわからないんだけど、光が1年かかってたどり着く距離を1光年っていうんだよ。あ、知ってた?
理科で習ったような気がするでしょ。僕はすっかり忘れていたからググったけど。
1光年って距離に直すと9兆4600億kmなんだって。もう想像もつかないよ。
だからさ、例えば地球から8.7光年先にある「おおいぬ座」のシリウスから地球を見ることができたとしたら、そこには8.7年前の地球が存在しているわけ。
それをもっともっと広げていって地球から100光年の位置から地球を見ることができたとしたら、そこには100年前の地球の出来事が存在しているってことだと思うんだけど違ったらごめんね。まあそういうことにしないと妄想の根底が崩れる。
そんな感じでどんどん妄想していったら、もしかして未来さえも同時に存在することが可能なんじゃないかって思えてくるんだよね。不思議なことに。だって過去が現在と同時に存在するなら逆もあるって思うよね。理屈はわからんけど。
僕は高校で物理を含めた理系科目を全く勉強しなかった完全文系人間。そっち方面の難しいことはさっぱりわからないから、もしかしてそんなの常識だよって言われちゃうのかもしれないけどさ。
さっきの100光年先から地球を見ることができたとしたらっていう例みたいに、空間の存在が過去と現在と未来の同等性というか同時性というかそんなものを担保してくれるのだとしたら、自分の視座が異なることで過去も現在も未来も消え去ったりまだ現れなかったりしないで同時に存在することができるのかもしれないなんて思ったんだ。強いていえば光年を見越す視座。
過去も現在も未来も同時に存在する世界が幸せかどうかは悩ましいところだけどね。
幸せな出来事や愛おしい過去が消えてなくならないことはうれしいけれど、思い出したくない忌まわしい出来事も全てが存在することになるわけだから。
過去は存在するけど変えられないことは変わらないわけで。
現在と同時に存在する未来は現在の行動で刻一刻と変化していくのかもしれないけど、それでも未来がわかってしまうのはやっぱりいただけない。
結局、過去も現在も未来も同時に存在する世界があったとしてもそれは必ずしも幸せを意味するとは限らないんだなあってさ。
過去は消え去るからこそ今を生きていけるって部分はきっとあるんだろうと思うし、未来なんてやっぱり知りたくない。
グダグダと妄想していたことをそのまま整理しないで綴っちゃったけど、やっぱり僕は過去は消え去り、未来は未だ存在しないという今この瞬間瞬間をこそ大切にする刹那主義の世界で生きていたいんだ。
ここまで書いてきたのに身も蓋もない結論で申し訳ないけど。
過去も現在も未来も同時に存在する世界ってのもちょっとだけ見てみたい好奇心はもちろんあるんだけどさ。
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