特定のイデオロギーや有名人、学者などいわゆる「権威者」の言葉や著作の内容を杓子定規に振り回して「おまえは間違っている!」「バカめ!けしからん!」と断罪してくる教条主義者はうさん臭くて好きじゃない。
特定の原理や原則、「尊いお言葉」を唯々諾々と何の疑問を持つこともせずに盲信し、もしくは誤った解釈を頑なに信じて、その考え方だけが唯一正しいものだと正義ヅラして他人を殴る。まるで何もわかっていない馬鹿者を正しい道に導いていやっているかのごとく尊大な態度で。
もしも口答えしようものなら、教科書通りの言葉をぶんぶん振り回してさらに殴りかかってくるから困ってしまう。そこにうさん臭さがぷんぷんするのはその人自身の言葉が存在しないから。
全てがどこかからの借り物で、自分というフィルターを通していないから真実味がともなわない。口先だけのうさん臭さがまとわりついている。
しかもそういう人に限って自分が教条主義に陥っていることの自覚がない。
まあ自分から「わたしは教条主義者です」と名乗る人はいないので、自覚があればガチガチの教条主義者になるわけがないんだけど。
たとえ僕のことを断罪してこなくても、頭の中がお花畑のようになってしまって特定の考え方や主張を批判的な見方や考え方を一切することもなく、むやみやたらと恩着せがましく押し付けてくる教条主義の方もあまり関わり合いにはなりたくない。その多くはいわゆる「〇〇信者」って呼ばれるようなタイプの人。
自分の考えや経験の裏付けがない薄っぺらい教条主義者がうさん臭いなら、自分が経験したことを信じてアドバイスという名の意見の押し付けや批判をしてくる人ならいいかというと必ずしもそんなことはないからめんどくさい。
自分の経験や体験に裏付けされた言葉は教条主義者の語る薄っぺらい言葉よりも真実味があったり、再現性のある経験から語られる言葉は、たとえそれが自分に対する批判であっても得られるところはあるかもしれない。
でもそれだって程度と条件の問題だよね。
経験主義者の方がマシかもって思っても、どんな場合も自分が経験したことだけが正義!なんていう経験"至上"主義者になるとかなりめんどくさい。
この手の人は自分の経験が正しいのであって、それに当てはまらないものは間違っていると断言してしまう人が多いので閉口してしまう。
この人たちがよく口にするのが「自分の時は〇〇だったのにこんな△△なはずがない」「自分の経験とは違うからおまえの言っていることは嘘だ」なんて類の言葉。
もちろん条件が揃えば再現性のある経験というものがあることは認める。
でも、全ての経験に再現性があるとは言えないことくらいちょっと考えればわかるんじゃないかな。
ある行動や出来事に対して全ての人が同じ感受性をもって受けとめ、同じ対応をするとは限らないし、ある刺激に対して全ての人が同じ反応や同じ感情を引き起こされるとは限らないでしょって言えばわかりやすいか。
経験主義者の言葉は教条主義者の言葉よりは胸に刺さることが多いかもしれないけど、経験を重んじる態度も至上主義になってしまうとただのめんどくさい人に過ぎなくなるという点では教条主義者と同じ穴のムジナ。
いずれにしても納得できない意見や信条を押し付けられるのはしんどいし、うさん臭いし、めんどくさい。
感情に任せて極端な点だけを取り上げて書いてきたけど、本当は教条主義でも経験至上主義でも、その人の発言の仕方や発言される状況によっては役に立つこともあるし毒になることもある。もちろん意見される側のリテラシーも問われることになるんだけど。
そして僕もよくラベリングをしてしまい反省することが多いんだけど、教条主義者が常に教条主義的な発言だけをするとは限らないし、経験至上主義者も同じこと。
だからこそ他人との交流はおもしろいはずなんだよね。
教条主義も経験至上主義も嫌いだって書いてきたくせに、今更なんだよって思うかもしれないけどさ。
別に声高に空気を読めというつもりはないしそういうことが言いたいのではないのだけど、他人に意見や主張をする時には状況や言い方を考えて、伝わりやすいようにバランス感覚をもってもらえるとうれしいし、意見や主張を聞く時には相手の意見を鵜呑みにしないだけのリテラシーを身につけたうえで真摯に聞く態度を忘れずにいたいよねって思う。
そうすれば少なくとも僕の周囲は今よりもっと平和になるんじゃないかなって思うんだけど。言うは易し行うは難しってね。ほんとなかなか上手くいかないっす。
このブログを気に入っていただけたら、ちょくちょくのぞきに来ていただけるとうれしいです。そして、とっても励みになります。
RSS登録していただける方はこちらのボタンをご利用ください。