[ま]ぷるんにー!(พรุ่งนี้)

ぷるんにー(พรุ่งนี้)とはタイ語で「明日」。好きなタイやタイ料理、本や映画、ラーメン・つけ麺、お菓子のレビュー、スターバックスやタリーズなどのカフェネタからモレスキンやほぼ日手帳、アプリ紹介など書いています。明日はきっといいことある。

[ま]聖書男(バイブルマン)〜現代NYで「聖書の教え」を忠実に守ってみた1年間日記〜 @kun_maa

ニューヨークのおよそ信仰熱心でない家庭に育った一応ユダヤ人だけど、不可知論者(たとえ神が存在したとしてもその存在や性質を認識することはできないと主張する人々)である著者が、現代の法律に反しない範囲で、そして自分の体に危害を加えない範囲で、聖書に書いてあることを文字通りに従って生活をしてみた一年間ちょっとについて、ユーモラスな日記風に書いたものが本書だ。 

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聖書男(バイブルマン)  現代NYで 「聖書の教え」を忠実に守ってみた1年間日記

聖書男(バイブルマン) 現代NYで 「聖書の教え」を忠実に守ってみた1年間日記

 

著者はこの生活を始めるにあたって次のように書いている。

旅の目的は、究極の聖書的生活を送ること。より正確にいうと、聖書の教えにできるだけ忠実に生きること。十戒に従い、産んで増え、隣人を愛し、収入の十分の一を神にささげる。それだけでなく、ほとんど顧みられないようなきまりも守る。混紡の服は着ない。姦淫の罪を犯した者を石打ちにする。もちろん、ひげの両端はそらない(レビ記19章27節)。選り好みをせず、全面的に聖書に従おうと努力している。 

1年間の聖書生活のうち、最初の8ヶ月を旧約聖書に従い、残りの4ヶ月を新約聖書に従って生活している。

僕はユダヤ教徒でもキリスト教徒でもないので、聖書は新旧ともまともに読んだことすらない。旧約聖書が主にユダヤ教新約聖書が主にキリスト教かな?程度の知識しかないのが正直なところだ。

著者は、第一義的には本を書くための企画としてこの聖書に従った生活を行ったのだが、その根底にあるのは次のような考え方である。

長くなるが本書を貫いている著者の基本的な考えなので引用する。

聖書の記述を真に受けているアメリカ人は少なくない。2005年のギャラップ社の世論調査によれば、アメリカ総人口の33パーセント、2004年のニューズウィーク世論調査では55パーセントにのぼる。新旧約聖書の字義解釈は、アメリカ政府の政策を方向づけている。中東、同性愛、幹細胞研究、教育、人工妊娠中絶、はては日曜日にビールを買えるかどうかまで。

でも、どうなんだろう。聖書を字義解釈するといっても、実際はみんな選り好みしているんじゃないか。左寄りであれ、右寄りであれ、自分の信条に合った個所を聖書から抜き取っているんじゃないか。

ぼくは違う。層のように積み重なった解釈をはぎとり、その下にある真の聖書を見出すつもりだ。究極のファンダメンタリスト原理主義者)になってやる。恐れはしない。聖書のいったとおりにする。そうすれば、聖書のどこが偉大で普遍か、逆にどこが時代にそぐわないか、見極められる。

まあ、これだけの覚悟を持って実際に聖書生活に突入したわけだが、そこに描かれている生活はそれほど肩肘張ったものとはなっていない。

見た目や行いが周囲の人から奇異に見られることはあっても、また聖書に基づくユダヤ教の伝統的な慣習などに戸惑いながらも、その行動はどこか力が抜け、覚めているようにしか感じられない。原理主義者とは程遠い。

また、出自が宗教に熱心な家庭ではなく、しかも不可知論者とはいえ、ユダヤ人であることからかもしれないが、旧約聖書の教えに従う時よりも、新約聖書の教えに従う時の方がさらに力が抜けて、ある意味いいかげんになっているような印象も拭えない。

でも、そこがもしかしたら著者の狙いとする表現なのかもしれない。

それは、聖書の字義解釈を標榜する者たちに対する皮肉であり、また、どれほど聖書に従っても、結局いつまでも不可知論者であることに変わりがない自分自身と、それでも認めざるを得ない聖書生活による変化への戸惑いに対する表現方法に思えるのだ。

聖書の知識がない僕でも楽しめたので、聖書に精通している人や信者ならもっと楽しめるのではないだろうか。いや、逆にバカにしているのかと怒りだすかもしれないな。

可能な限り聖書の教えに従った生活が行えるように専門家のアドバイスを受けてみたり、数多くの聖書を用意したり、アーミッシュや究極の聖書字義解釈主義者の団体、エホバの証人などの主張に耳を傾けたり、生理中の女性を避けてみたり、性欲と闘ってみたり、虫を食べたり、エルサレムを訪れたり、その他にも興味深い生活がたくさん描かれている。

そして、1年間の聖書生活を通して、著者がたどり着いた結論はカフェテリア宗教(自分が守りたいものだけを聖書から選んでとる)でいいじゃないかということ。

それは、最初に述べている疑問でもある「聖書を字義解釈するといっても、実際はみんな選り好みしているんじゃないか。左寄りであれ、右寄りであれ、自分の信条に合った個所を聖書から抜き取っているんじゃないか」という点についての著者の答えである。

あれ?究極の原理主義者を目指していたんじゃないのか?って思うけど、1年間の聖書生活で、どんな原理主義者でも、だれもがカフェテリア宗教なんだとうことがよくわかったという身も蓋もない結論なのである。

まあ、そうなる気持ちも本書を読み終えた今、僕にもよくわかる。

それじゃ何も変わってないんじゃないかというと、そんなことはない。

僕は相変わらず不可知論者だ。けれどいまは、エルトン・リチャーズの言葉を借りれば、畏敬の念をもつ不可知論者だ。矛盾は生じない。断言してもいい。神がいようがいまいが、聖なるものは存在するといまは信じている。

それは、具体的にはすべての物事に「感謝する」気持ちを持つという形で、著者の生活を変えているようだ。

本自体のボリュームはけっこうあるし(1年分だからね)、宗教に興味がまったくないとつまらないかもしれないが、実験的な生活の読み物としてはおもしろかった。 

聖書男(バイブルマン)  現代NYで 「聖書の教え」を忠実に守ってみた1年間日記

聖書男(バイブルマン) 現代NYで 「聖書の教え」を忠実に守ってみた1年間日記

 
聖書男(バイブルマン) 現代NYで「聖書の教え」を忠実に守ってみた1年間日記

聖書男(バイブルマン) 現代NYで「聖書の教え」を忠実に守ってみた1年間日記

 

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