[ま]メッシと滅私「個」か「組織」か?/ニワカの僕にも日本代表チームの課題がなんとなくわかるおもしろい本 @kun_maa
最初に断っておきますが、この本にはメッシは出てきません。これは著者自身が「はじめに」で書いています。
じつのところ、「メッシ本」なわけではない。最初に断っておくが、ほとんどメッシは出てこない!とはいえ、決してふざけているわけではない。サブタイトルの「個」か「組織」か?にあるように、日本サッカーの重要な問題に切り込んだものだ。
「メッシ」とは、「個」を強く意識する社会に育ったプレーヤーの象徴だ。
いっぽう「滅私」は、「個を殺してでも組織のために戦える」という特徴を持つ、日本人プレーヤーの姿を現している。(P.10〜11)
ワールドカップブラジル大会も決勝トーナメントが始まり、連日ハイレベルの戦いが繰り広げられているようですが、ニワカの僕にとっては日本がコロンビアに負けた時点でワールドカップは終わってしまいました。正直に言うと、ギリシャと引き分けた時点で終わっていたのですがとてもそんなことを言える雰囲気ではなかったので。
最近は早起きする気にもなれず、試合結果だけをなんとなく確認している腑抜けです。
ブラジル大会が始まる前は、マスコミもいわゆる解説者と呼ばれる人たちも「今度の日本代表は強えー!」「彼らならきっとやってくれる」って感じで1次リーグ突破は当然って雰囲気満々だったんですが、あの煽るような空気はどこへ行ってしまったのでしょう?
実際、1次リーグのいろんな試合を観ていると、ド素人の目からもとても日本代表チームが強いとは思えなかったんですが・・・不思議ですね。
昔に比べれば日本代表としてピッチに立っている選手の多くは海外で活躍している選手だし、他の国にも引けを取らないと思っていたのですが。
そんな素人の素朴な疑問に対する答えを考える上で、とてもわかりやすいヒントを与えてくれるのが本書「メッシと滅私」です。
キリスト教文化圏と東アジアの仏教・儒教文化圏との「個」に対する捉え方の決定的な違い、そしてその違いが生み出す文化的な軋轢に視点を置いて、著者自身のドイツ10部リーグでのサッカー経験やヨーロッパのクラブチームで活躍する日本や韓国の選手たちへのインタビューなども盛り込みながら、「サッカー比較文化論」を展開しています。
その内容は素人にもわかりやすく、また、おもしろく書かれているので読み物としても楽しめます。
そして楽しみながらも「個」というものに対するキリスト教文化圏の人々と日本人の考え方の根本的な違いについて明確に示した上で、まず「個人ありき」の自己主張と自己責任による欧州型チームの在り方と、高校サッカーに典型的に見られるようないわゆる「滅私型」の個を犠牲にしてもチームの為に動くという日本サッカーとの違いを明らかにしていきます。
そのうえで、日本代表チームに欠けているものは「日本のサッカーとはこういうものである」という「軸」がないことにあると指摘しています。
著者は、2006年7月の就任会見で日本代表チームの”日本化”を打ち出したオシム監督の取組みを引き合いに出します。
かの有名な、サッカーの日本化だ。つまりは「日本サッカーのスタイルとは何か」を示すという。日本人はそれを外国人監督に聞かなくてはならないのだから、かなり世界的にも特異なケースではないか?イタリアもブラジルもイングランドも韓国も、まず「自分たちのスタイル」があり、そこから足し引きをして、その時点でベストのサッカーが構築される。ところが日本は21世紀にして、ようやく「日本化」が始まるというのだ。(P.162)
オシムが就任するまで、ぶれ続けてきた日本代表が志すサッカーの軸。あるいはそういった軸そのものがなかったと著者は述べます。そしてその軸を作ろうとしたオシムはご存知のとおりその道半ばで倒れます。
もし、オシムが倒れずにその目指すところを全うしていたら日本サッカーの歴史で初となる「文明の融合」が期待できたのかもしれません。
欧州にない自己犠牲の精神で走れる日本人選手というOSに、欧州の「個=考えること」というアプリケーションがインストールされ、それが11人で調和したらどんなサッカーになっただろう。これこそ、キリスト教社会から伝来してきた偉大な文化「フットボール」を、日本人にしかできない方法で表現した「日本化」だったのだ。
だからこそオシムの"途中下車"は、日本サッカー界全体にとって、とてつもなく大きな損失となった。筆者の私見では、史上最大の痛恨事だったと言い切ってしまえる。
その後、この「日本化」は放り出され、忘れられた。(P.167〜168)
そして、日本代表チームに「日本化」という原点が欠けたまま、メンバーのほとんどが海外組になることで急速に欧州化していったチーム。
欧州化は時の流れとはいえ、その際に当然必要となるキリスト教文化圏的な「個」の在り方は欠如しているという状況。肝心なものが欠けたまま中途半端に欧州化が進む一方で、バランスを基本指針とするザッケローニ監督。
著者は、ザッケローニ監督が日本人選手に対して、キリスト教文化圏の人々と同じような「個人」という概念を基本条件として有していると勘違いしているのではないかと分析しています。だから上手くいかないのだと。
それもこれも「日本のサッカー」に軸がないことから生じる齟齬であり、勘違いであり、当然の結果なのだと。
個を犠牲にして組織に尽くせる姿を強調するのか。あるいは、あくまで「個」を追求するのか。軸がない。「日本化」を一度とことん追求しておけば、その基準から足し引きして、よい姿を考察できたのではないか。「あれは上手く行ったんだから、もっと伸ばそう」「失敗の経験を基に改善しよう」と。(P.179)
日本代表チームに「日本化」という軸がないことの影響は大きいと感じます。海外組の選手たちは全員がそうではないにしろ「個」を重視する傾向にあり、しかし日本のサッカーの土台を今も支える高校サッカーはむしろ「滅私」を基本とし、個を犠牲にしてもチームの為に動くということが主流のようです。個の主張と個の欠如に混乱する日本代表チームの姿。
しかし、著者は日本代表チームがどのスタイルを目指すべきだという点までは示してくれません。著者も迷っているようです。
それは、いままでのキリスト教社会には存在しえないサッカーだ。個よりも組織。グループのために自分を犠牲にし切れるサッカー。相手の予測を上回るオートマティズムが展開されるサッカー。
だとしても、いま、日本代表にそういったものが求められているか?本田圭佑のような「それまでの日本人にはなかったような個」こそがトレンドなのではないか?(P.187)
そして答えは、このダジャレのようなタイトルへと繋がって行きます。
メッシなのか、滅私なのか。それが大事なのだ。この点を徹底的に問わなければならない。(P.187)
今後の日本代表の在り方について、やはり一度どこかでしかるべき人たちや選手が徹底的に議論するべきなのではないかと思わせる一冊であり、ニワカにサッカー観戦の奥深さと楽しさを教えてくれる一冊でもあります。
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