[ま]目が見えない人の気持ちなんてわからないから @kun_maa
僕には中途失明をした友人がいる。
彼とは小学生低学年からの付き合いだから、長いものでもう40年にもなる。
小中学校は同じだったが進学した高校は違うし、彼は卒業直前に高校を中退したり、就職後に地元を離れてしまったりしたのでいつも一緒にいたわけではない。それでもこういうのを腐れ縁というのか、節目節目ではなんとなく連絡を取り合い付き合いは続いていた。
僕は携帯電話が嫌いで、35歳くらいまで一切PHSや携帯電話などを持たなかったのだが、どうしていつも彼の連絡先を知っていたのだろう?そしてなぜ彼も僕の連絡先を知っていたのか、今でも不思議に思うことがある。
そんな彼が失明したのを知ったのは数年前のこと。
最初は冗談だと思った。何をふざけたことを言っているんだと思った。
彼の目の状態は完全に光を失ったわけではなく、光の明暗や明るい場所では点字ブロックなどの目立つ色ならなんとなくわかるし、かなり目を近づければ少しは物が見えるようだった。
それでもひとりで移動するのは難しく、誰かの手助けはあるに越したことはないらしい。
彼が視力を失ったことについてどう思っているのか、そんなことは聞いたことがないからわからない。それを聞いたところで彼の役に立つわけでもないし、好奇心だけで尋ねるほどの図太さを僕は持ち合わせていない。
それに、彼が自分の状態をどう思っているかなんてことは正直どうでもいい。
自分の友人が目の前で困っているなら手助けをする。ただそれだけのことだ。
闇雲に手を出しても逆に迷惑かもしれないので、どんな手伝いが僕にできるのか、そしてどんな手伝いを望んでいるのか。それくらいは本人に聞いている。
あとはその都度確認したり、声をかけたりしながら寄り添い、試行錯誤しながら自分で学んでいくだけだ。
たとえば、僕にはまったく気にならない歩道の傾斜で彼は転びそうになる。僕にはまったく気にならないほどの歩道のくぼみが彼には恐怖心を与える。
混み合った場所で周りを集団に取り囲まれると非常に不安そうになる。
一緒に行動してみて初めてわかることの方が多い。
そう、目が見えない人の気持ちをあれこれ詮索したり、頭で考えて理解しようとしたってそんなもの自分がなってみなけりゃわかるわけない。
どんな病気や障害も、想像力をフル回転させたところで当事者の気持ちなんてわかるはずがない。
そんなことは自分がなった時に考えればいいことで、「相手の気持ちを理解しなくては」とか「共感の必要性」や「ボランティア精神」なんてくだらないことを考えて行動が止まってしまうくらいなら、はなっから理解しようなんて思わなくて構わないから、とにかく一緒に行動して何かの役に立った方がお互いに幸せだ。
僕は心が狭い人間なので、誰に対してもこんなふうに思えるわけではない。友人でなければ、誰かが困っていても余計な手助けなんかしないで知らん顔して通り過ぎる男だ。
でも、先日2日間ほどその友人と一緒に行動していたら、なんとなく他の人に対しても、もっと何かができそうな気がしてきた。
友人といるときに、見知らぬ老人から長距離バスのチケットの買い方を尋ねられた。いつものように「そんなこと知らん」と突き放そうと思った時に、彼が老人のために行動を起こした。僕も付き合わないわけにはいかない。彼に引きずられるように、僕は自然に見知らぬ老人の手助けをしてしまった。不思議な気分だったが、それは決して不快な気分ではなかった。
そして昨日、僕は駅前で杖をついて歩いていた人に思い切って声をかけてみた。できたことは駅のエスカレーターの乗り口まで案内したことだけだったけど気持ちがよかった。こんなことは単なる自己満足でしかないのかもしれない。自分が「気持ちよかった」のがいい証拠だ。僕はそれでも構わないと思っている。
もちろん昨日声をかけた人がどう思っていたかなんて気持ちはわからない。もしかしたら慣れない者による中途半端な手助けを迷惑だと思っていたかもしれない。でもそんなことはわからないし、わからないことを思い悩んで行動しないよりもとにかく何かやってみた方がずっといい。失敗したら次から気を付ければいい。何かに気づいたら次に生かせばいい。僕は、ただ僕にできることを少しずつでもやっていくだけのことだ。
そんなことに気づかせてくれた友人に感謝している。
またいつでも遊びにきて、僕を遠慮なく引きずり回して欲しい。
最後までお読みいただきありがとうございます。
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