[ま]ぷるんにー!(พรุ่งนี้)

ぷるんにー(พรุ่งนี้)とはタイ語で「明日」。好きなタイやタイ料理、本や映画、ラーメン・つけ麺、お菓子のレビュー、スターバックスやタリーズなどのカフェネタからモレスキンやほぼ日手帳、アプリ紹介など書いています。明日はきっといいことある。

[ま]0点主義 新しい知的生産の技術57/どこにでもある材木よりも代替不可能な神木を目指そう @kun_maa

 
 
 
こんにちは!どうせ短い人生おもしろいことに時間を使いたい @kun_maa です。
 
僕は残念ながら「勉強」という言葉に楽しいというイメージはありません。
受験勉強や昇任試験の勉強を思い出して、どうしても「つまらない」「苦痛」というイメージが先行してしまいます。

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もはや、みんなと同じように我慢して勉強さえすれば誰でも幸せになれる時代ではありません。
 
「0点主義 新しい知的生産の技術57」(荒俣 宏 著)

 
 
この本がテーマとしているのは、人生の知力という点でストライクを投げる能力ではなく、ここぞの場面で相手を空振りさせる「決め球」の磨き方です。
 

みんなが役に立つと考えて勉強する分野ではなく、自分が好きで熱中できる分野、ニッチな分野での能力を伸ばし、厳しい競争の中に身を置かずに楽しく豊かな人生を送るための指南書です。


0点でも「決め球」があれば、自分の人生はかならず開けてくる。この「決め球」を見つけ、磨きあげるには、ストライクを投げるだけの練習のための練習では意味がないし、おもしろくない。
では、どうするか?球を投げることをおもしろく、楽しくすればいい。 P.3

好きなことは、誰でも他人に言われなくてもやる。ものすごく忙しい人でも、好きなことは寸暇を惜しんでせっせとやる。(中略)
 
私が意味する「勉強」とは、もっと自由で楽しくて、自分の世界や可能性がどんどん広がっていき、さらには持続的な収入と幸福感につながるような勉強のことだ。(中略)
大人たちの言葉に従って勉強したところで、結局は一部の成功者やお金持ち=「勝ち組」と大多数の「非勝ち組」に区分されるだけである。
 
だからこそ、成功しなければ幸せになれない。そのためには必死で勉強するしかない。そして、努力して能力を開発すれば、成功して豊かになれる。勉強しない者よりも、勉強した者が優位になる。多くの若者はそう思っているはずだ。けれども、それは半分しか正しくない。あとの半分はただの幻想だと思う。
 
というのは、ストライクがとれることで「勝ち組」になった人でも、その一生が充実し十分に楽しめるものになるわけではないからだ。毎日不安に押しつぶされそうになっている「勝ち組」はいくらでもいる。それってほんとうに幸せなのだろうか。
むしろ、成功したかどうか、勝ち組か非勝ち組かに関係なく、知的作業や日々の暮らしのおもしろさに打ち込めた人こそが、一生を満喫したといえるのではないか。  P.4〜6

 
人が注目しない部分に興味をもつことで、どんなことにも、おもしろいと思えることが見つかるものだと著者は言います。
 
好きなことを突き詰めるために、諦めることの必要性や、無駄なプライドを持たないことの大切さにも触れています。

なによりも、この本を書いている著者自身の楽しく豊かな人生を感じられる本であり、そこにこそ多くのヒントが含まれていると思います。
 
著者の荒俣さんは、自分の好きなことを仕事にしているように見えます。
でも、それは簡単なことではないでしょう。
 
見込みのないこだわりを捨てたり、人から見ればムダに思えることのなかにおもしろさを発見して追求していく、イヤなことの中にも自分なりの好きを見つけて楽しく学んでいくといった、自分の「好き」を突き詰めていくことで手にしたものです。
 
本書には、現代社会において、なによりも世俗的な成功という目的のための一手段として位置づけられている「勉強」を、人生を豊かで楽しいものにするためのものにする「アラマタ式0点主義の勉強法」の極意が詰まっています。
 
僕が特になるほどなあと思ったのは、次の部分です。
「大工の名人が弟子を連れて材木を探す旅に出た。すると、ある村で神木として尊ばれている巨木に出会った。弟子がこの木を使おうというと、名人は答えた。あの木は役に立たなかったからこそ巨木になれたのだ、と。ほかの木は建築に使いやすい『財あるいは材』になる木だったから、どんどん伐られてしまった。しかし、この木は曲がっていたりして使いにくい「散木」だったので伐られなかった。そのおかげで長いあいだ伐られずにすみ、とうとう神木になれたのだ、と」
 
いわゆる「勉強」はこの話でいう材木になることをめざすものでしかありません。
 
なぜなら、みんなが参加するいわゆる「社会で役立つ勉強」では、大きな差異が生まれず、個性ある人的資本にはなかなかなれないからであり、その結果努力をしても一部のエリートを除いて、どこにでも売っている廉価な人的資本になってしまうのがオチだということです。
 
廉価で代替可能な材木のような生きかたよりも、すぐには役に立たないかもしれないけれど、代替不可能な神木のような生き方をしたいものです。

 
 
 
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