[ま]描かれているのは死者への鎮魂歌か狂気の世界か/ゾンビ日記 @kun_maa
こんにちは!ゾンビ大好き @kun_maa です。
久しぶりに小説を読みました。
「ゾンビ日記」(押井守 著)
俺は狙撃手だ。
といっても俺は狙撃兵ではないし、特殊部隊の隊員でもない。
もちろん猟師でもない。
山に入って鳥や獣を撃ち殺すなんて、そんな野蛮きわまりない趣味とは今も昔も無縁だ。
標的、つまり狙撃の対象は人間だが、俺は殺人者ではない。
殺し屋でもテロリストでもない。
何故ならー俺が狙う標的は<死者>だからだ。 P.9
世界中で同時に起こった死者が動きだす現象。
そして生きている人々も、眠りとともに無作為にその仲間入りをし、生者のいなくなった世界。それがこの小説の舞台です。
場所は東京。
主人公は毎日毎日、死者を狙撃によって葬り去っています。
ひとりで規則正しい生活を送りながら、毎日50人と決めている狙撃。
この小説に登場する死者たちは、ゾンビ映画のそれのように生者を襲ったりはしません。ただ街中を徘徊しているだけです。
ゾンビ映画の愛好家の間には「ゾンビ汚染」という言葉があったらしい。
細菌や放射能がそうであるような、目に見えぬ脅威の静かで急激な蔓延ー「生きている死体」の蔓延によるパニック現象のことだそうだ。
襲来するゾンビたちと戦い、スーパーマーケットに立て籠り、ヒーローになったり喰われたり、というあの映画やゲームでお馴染みの展開は、非日常世界を渇望する人間たちにとって格好の設定だったのだろう。
だが、実際に起きた汚染は、それとはかなり様相を異にするものだった。
何もしない、ただうろつくだけの死体の引き起こした脅威。
それは<死者>の出現がもたらした倫理の崩壊ー「モラル汚染」だった。 P.15
そんな彼らを丁重に葬り去るのが、唯一の生者である主人公の役目であるかのように、ストイックに彼は暮らし、淡々と50人ずつ狙撃していきます。
だが俺は殺人者ではないし、凶悪な犯罪者でもない。
あえて言うなら<死者>に引導を渡す僧侶であり、墓堀り人であり、もっと散文的に言うなら火葬場の職員のようなものだ。
だからこそ野放図な遣り方は許されないし、勤勉でなければならない。 P.34
小説なのですが、主人公の回想として、戦闘における人間の心理や戦争の歴史、軍の教育や人間の死生観などについての考察にかなり多くのページを割いています。
それは、まるで人間と暴力と死についてのすぐれた論考のようです。
例えば、次のように。
明らかに、ほとんどの人間の内部には、同類たる人間を殺すことに強烈な抵抗感が存在する。
その抵抗感はあまりにも強く、それを克服できないうちに戦場で命を落とす兵士が少なくない。
「人殺し」を避けるための兵士たちの努力は、発砲率という数字に現れない他の方法においても繰り返された。
意図的な「火星撃ち」、つまり偽装発砲がそれだ。
ベトナムの銃撃戦で、敵ひとりを殺すのに5万発以上の弾薬が消費された、というのは有名な話だ。 P.91
殺人への抵抗感と忌避感を克服する要因はいくつかある。
ひとつは、敵を逃亡させ背中を向けさせることだ。
人を殺すときは対面せず、相手の目を見ずに背後から襲えば、相手が人間であることを否認することがずっと容易になるらしい。さらに追跡する側の中脳ー人間の中の獣の部分にとっては、逃げるものは獲物に変化するという事情がこれに加わることになる。だからたいていの殺しは迫撃戦の過程で起こる。戦闘は相互の威嚇で始まり、どちらかが背を向けて逃げ出すと、そこから文字通りの殺戮が始まる。 P.102
それにしても、本来は同じ人間を殺せない筈の人間が、「人殺し」を容易にするという倒錯した目的のために考えだした方法と、その複雑な組み合わせの豊富さはどうだろう。
「人殺し」は人間という生き物の業だ、というよりも「人殺し」のために知恵を絞り、努力を重ねて己を捻じ曲げるーその情熱こそが人間の業だと思わざるを得ない。「否認すべき人間」が存在するから「殺す」のではない。
「人殺し」のために、目の前の人間を殺害するために、人間が人間であることを否認する。 P.124
このような考察が延々と続きます。
それはそれで、とても興味深い話なのですが、「ゾンビ日記」というタイトルに、ゾンビ映画のようなスリルと興奮を期待すると、かなりがっかりすることになると思います。
しかし、それらの興味深い考察を通すことで、いったいこの主人公の行為はなんなのか、そしてこの行為が主人公に与える影響や日々の生活を眺める視点を得ることができます。
そこに描かれているのは本当に主人公が語るように<死者>への弔いの儀式なのでしょうか。この主人公がまともな精神の持ち主だと誰が判断できるでしょうか。
あることをきっかけにして、ストーリーは唐突に急展開を迎えます。
ラストシーンは実際に読んでもらうしかありませんが、クライマックスのあとの主人公の冷静な語りはそれまでの繰り返しにもかかわらず、静かな狂気の世界を感じさせます。