[ま]ぷるんにー!(พรุ่งนี้)

ぷるんにー(พรุ่งนี้)とはタイ語で「明日」。好きなタイやタイ料理、本や映画、ラーメン・つけ麺、お菓子のレビュー、スターバックスやタリーズなどのカフェネタからモレスキンやほぼ日手帳、アプリ紹介など書いています。明日はきっといいことある。

[ま]「『当事者』の時代」と自分にできること @kun_maa

こんにちは! いろんなことに高見の見物を決め込むクセのある男 @kun_maa です。
 
佐々木俊尚氏の著書「『当事者』の時代」を読みました。

 
新書にしては分厚く、「あとがき」まで入れると465ページもあります。
 
佐々木氏の著書ということで、ソーシャルメディア論的な内容かと勝手に想像して読み始めましたが、プロローグで一見なんのつながりがあるのかわからない3つの物語が示され、読み進めて行くうちに1つの結論へとつながっていくという独自の日本人論あるいは日本社会論といえる著作でした。
 
本書のキーワードとも言えるのが「マイノリティ憑依」という言葉です。
 
戦後、1960年代後半に至るまでの20年間、自分たちを「あの戦争」の被害者としてしか意識していなかった日本人が直面せざるを得なかった「内なる異邦人」(在日、アイヌ)と「戦争加害者」としての日本人という事実。
 
そこから生まれた「被害者であり加害者でもある」という視点を過剰に受け入れ、「被害者抜きの加害者」論へとシフトした結果、起こったのが「マイノリティ憑依」という立場です。
 
「マイノリティ憑依」という立場になれば、当事者としての苦悩も、自分の立ち位置を気にすることもなく、第三者として「弱者」の代弁者を名乗れるのです。
 
弱者であるマイノリティ(太平洋戦争での戦死者、ベトナム人、黒人、無辜の庶民など)に憑依して同化してしまえば、自分は「当事者」としての痛みを引き受けることなく「加害者」を責めることができるようになってしまうのです。
 
この「マイノリティ憑依」は「中立」を建前とするメディアにとっては非常に都合がいい立場であり、また、多くの日本人にとってもそのようなメディアが流す情報は自分たちの立ち位置を確認するために心地の良いものでした。
 
しかし「マイノリティ憑依」とは決して当事者の苦悩や痛みを引き受けることのない単なるガス抜きとしての免罪符でしかないのです。
 
著者は次のように述べています。
「自分自身の問題ーつまりは、当事者としての意識。その当事者としての意識を決して生み出さない<マイノリティ憑依>というパラダイム。ただひたすら、エンターテイメント化された免罪符として機能してきただけの<マイノリティ憑依>ジャーナリズム。これこそが、日本の1970年代以降のマスメディアとジャーナリズムの最大の病弊である。とはいえ幸運なことに、この病弊は右肩上がりの経済成長という対症療法によってうまく包み隠され、その病変が露にならないですんでいたのだ」(P.415)
 
冷戦の終結による55年体制の崩壊、グローバリゼーションの波に呑み込まれ「皆が幸せになることができるかもしれない」という幻想も破れた現代において、これまでのような「マイノリティ憑依」による幻想の「弱者」「少数派」の呪縛からリアルの存在である少数派や弱者を救い出さなければならないと著者は言います。
 
そのためにも、何かを伝えるときに、絶対的優位に立つ仮想の弱者に憑依して優位な第三者の立場から語るのではなく、自分自身の立場である「当事者」として、「宙ぶらりん」の居心地の悪い状態の中で、常に自分の立ち位置を検証し続けながら語ることがいやがうえにも求められています。

しかし、全員が当事者となる可能性がある一方で、誰にも当事者となることを強制することはできません。

他者に当事者であることを求める行為自体が傍観者としての要求であり、すでに当事者性を帯びていないからです。

他者に求める前に、自分自身で当事者であることを考えて実践していくほかないのです。

その道は非常に困難なものですが、そのような世界にすでにメディアだけではなく著者も我々もすべての人が呑み込まれているのです。
 
それでは、どのようにすれば当事者性を確保できるのか。
 
答えはありません。
 
誰かが示した方法に追従すれば当事者性は失われてしまうからです。
 
ひとりひとりが自分自身でやれることをやって闘い続けていくしかない、闘うことにのみ意味があるのだと著者は結論づけています。
 
 
僕は本書を読み終え、次のように思いました。
 
個人が日常で依って立つペルソナはひとつではありません。
 
例えば職業人としての自分、父親としての自分、友人としての自分、趣味の世界での自分、家族の一員としての自分、ソーシャルメデイアの中の自分など様々なペルソナから自分が成り立っています。
 
個人がそのそれぞれのペルソナにおいてindispensable(交換不可能)な人間となり自分の責任を果たしていくことこそ、当事者としてものごとを語る、ものごとを実践していくことにつながるのではないでしょうか。

 

そこには当然、他の人たちとの交流があり共感や共鳴などが存在し、そこでindispensableな当事者として語ることで、各ペルソナに属する他の人たちも影響を受けていき、それぞれ自分のやり方で変化していくように思います。

 
それは「マイノリティの憑依」による呪縛から開放されるためのひとつの闘争手段となるのではないでしょうか。

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