[ま]ぷるんにー!(พรุ่งนี้)

ぷるんにー(พรุ่งนี้)とはタイ語で「明日」。好きなタイやタイ料理、本や映画、ラーメン・つけ麺、お菓子のレビュー、スターバックスやタリーズなどのカフェネタからモレスキンやほぼ日手帳、アプリ紹介など書いています。明日はきっといいことある。

[ま]ポケットに名言を/やっぱり寺山修司には敵わない @kun_maa

この本は、劇作家であり詩人であり、歌人であり作詞家であり俳人でもあった寺山修司が自ら選んだ名言集である。

時には凶器となり容赦なく人を傷つけ、また時には薬となり傷ついた人を癒し、また時には思い出ともなる言葉の持つ力を知り尽くした寺山だからこそ、真の名言を選び、公表することが許される。

そんな気持ちにさせられる鋭敏な感覚に研ぎ澄まされた一冊である。 

ポケットに名言を (角川文庫)

ポケットに名言を (角川文庫)

 
ポケットに名言を 角川文庫

ポケットに名言を 角川文庫

 

学生だった頃の寺山にとって、最初の「名言」は、井伏鱒二

花に嵐のたとえもあるさ

さよならだけが人生だ 

という詩だったという。彼はこの詩を口ずさむことで、苦難を幾たびも乗り越え、「さよならだけが人生だ」という言葉は自分の処世訓であると書いている。

正直、ちょっと平凡すぎて意外な気がした。しかし、彼の短くも凄まじい人生を振り返った時、やはりこの詩こそが彼の生き様にふさわしいのかもしれないと思えてきた。

 

寺山は、本書を書くにあたり冒頭で次のように述べている。

本当はいま必要なのは、名言などではない。

むしろ、平凡な一行、一言である。だが、私は古いノートをひっぱり出して、私の「名言」を掘り出し、ここに公表することにした。まさにブレヒトの「英雄論」をなぞれば「名言のない時代は不幸だが、名言を必要とする時代は、もっと不幸だ」からである。

そして、今こそそんな時代なのである。

素直にかっこいいと思う。こんなことをさらりと口にできたら僕の人生もいくらか違ったものになっていたかもしれない。

寺山修司にとっての「名言」が何かを定義づけしている文章がある。

もし、名言を定義づけるとすれば、それは、

一、呪文呪語の類

二、複製されたことば、すなわち引用可能な他人の経験

三、行為の句読点として用いられるもの

四、無意識世界への配達人

五、価値および理性の相対化を保証する証文

六、スケープゴートとしての言語

とでも言ったことになるだろうか?

思想家の軌跡などを一切無視して、一句だけとり出して、ガムでも噛むように「名言」を噛みしめる。その反復の中で、意味は無化され、理性支配の社会と死との呪縛から解放されるような一時的な陶酔を味わう。

彼が選び、本書に登場する多くのいわゆる「名言」たちは、僕の心を打つものもあれば、まったくなんでこれが「名言」なのだろうと?意味がわからないものも多数ある。

ウィトゲンシュタインが主張したように、僕の言葉の限界は、僕の世界の限界を意味するのだろう。

寺山修司には見えて、僕には見えない言葉の世界。

寺山修司にはすべて理解できているのに、僕にはまったくわからない言葉の世界。

やっぱり寺山修司には敵わない。敵いっこない。 

そして、そんな僕をあざ笑うかのように彼は最後にこう述べる。

そして、「名言」などは、所詮、シャツでも着るように軽く着こなしては脱ぎ捨ててゆく、といった態のものだということを知るべきだろう。

「名言」は、だれかの書いた台詞であるが、すぐれた俳優は自分のことばを探し出すための出会いが、ドラマツルギーというものだということを知っているのである。 

ポケットに名言を (角川文庫)

ポケットに名言を (角川文庫)

 
ポケットに名言を 角川文庫

ポケットに名言を 角川文庫

 
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