[ま]ぷるんにー!(พรุ่งนี้)

ぷるんにー(พรุ่งนี้)とはタイ語で「明日」。好きなタイやタイ料理、本や映画、ラーメン・つけ麺、お菓子のレビュー、スターバックスやタリーズなどのカフェネタからモレスキンやほぼ日手帳、アプリ紹介など書いています。明日はきっといいことある。

[ま]これは小説などではない/「殺人犯はそこにいる 隠蔽された北関東連続幼女誘拐殺人事件」 @kun_maa

北関東連続幼女誘拐殺人事件。冤罪が証明されたことで有名となった「足利事件」とは裏腹に消し去られようとしている事件がある。

栃木県足利市群馬県太田市の隣接する2つの市のある地点を中心に半径10キロほどの円の中で17年間に5人もの幼女が姿を消している。

彼女たちはいずれも無惨な遺体となって発見されたり、行方不明のまま。

事件のほとんどは週末などの休日に発生し、誘拐現場のほとんどがパチンコ店、遺体のほとんどが河川敷のアシの中で発見されるという共通点をもっているにもかかわらず、未だ犯人は逮捕されていない。

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本書はこの北関東連続幼女誘拐殺人事件を、執念とも呼べる徹底的で地道な取材により明るみに引きずり出し、世に知らしめることとなった著者の取材・報道活動の記録であり、戦慄のノンフィクションである。

著者を突き動かしているものは「5人の幼い子供たちが理不尽にもこの世から消えた」ことに対する憤りであり、命の重みとそれが蔑ろにされていること、被害者や被害者遺族に対する思いと真実を明らかにしなければならないというジャーナリストとしての使命感である。

著者は「冤罪事件」に興味があるわけではないと言い切っているが、北関東連続幼女誘拐殺人事件を立証するためにはどうしても避けて通れない事件があった。

それが「足利事件」である。この事件の犯人とされ無期懲役刑を受けた菅家さんの存在が、一連の事件が同一犯によるものであることを明らかにするためには障害となるのである。

菅家さんの無罪を確信した著者の取材活動は警察・検察の杜撰な捜査と自供の強制を炙りだし、絶対的とも思われた「DNA型鑑定」の不確かさを明らかにしていく。巨大な権力に対抗するには、彼らが持っている情報以上の「取材」をしなければならないという徹底的な現場主義と取材の積み重ねが勝ち取った「事実」による一大キャンペーンにより、ついに菅家さんの冤罪が決定的となる。

その取材に対する地道な努力と執念には頭が下がる思いだ。なぜひとりのジャーナリストがここまでしなければならないのか。捜査機関や司法はいったい誰のために存在するのか。読み進めるに連れて言いようのない怒りと被害者である幼女たち、被害者家族の悲しみに涙した。

 

そして菅家さんの冤罪確定がゴールではない。ようやくスタート地点に立ったのだ。

真犯人の情報も徹底的な取材により握っている。そしてその情報を捜査機関に提供しており、警察も検察もいったんは事件の連続性を認めながらも事件の解決に動き出さない。

報道による追求、足利事件の冤罪判決、国会議員の働きかけ、総理大臣の答弁、被害者家族の行動。どれも捜査機関を動かすことはできない。

そこには自らの過ちを認めず、ひたすら保身に走る捜査機関の意図が見え隠れする。

ひとつの冤罪は他の事件の冤罪の可能性をも導きだすからだ。

著者は次のように書いている。長いが引用したい。

ここまで読めば、おわかりいただけただろうか。「北関東連続幼女誘拐殺人事件」が葬られたということを。

五人の少女が姿を消したというのに、この国の司法は無実の男性を17年半も獄中に投じ、真犯人を野放しにしたのだ。報道で疑念を呈した。獄中に投じられた菅家さん自身が、被害者家族が、解決を訴えた。何人もの国会議員が問題を糾した。国家公安委員長が捜査すると言った。総理大臣が指示した。犯人のDNA型は何度でも鑑定すればよい。時効の壁など打ち破れる。そのことはすでに示した。にもかかわらず、事件は闇に消えようとしている。

本来、シンプルな話のはずだった。五人の少女達。罪もない幼い命が17年の間に、半径10キロの地域で、殺されたり行方不明になったりする事件が起きたのだ。それを黙認するというのか。私は、許せない。だから報じ続けてきた。本を執筆するのは事件の行く末を見届けてから、最後の最後にしようと思っていたが、もうよい。私は知りうる事実と問題点を書き残すことにした。

そもそも報道とは何のために存在するのかー

この事件の取材にあたりながら、私はずっと自分に問うてきた。

職業記者にとって、取材して報じることは当然、仕事だ。ならば給料に見合ったことをやればよい、という考え方もあるだろう。だが、私の考えはちょっと違う。謎を追う。事実を求める。現場に通う。人がいる。懸命に話を聞く。被害者の場合もあるだろう。遺族の場合もある。そんな人たちの魂は傷ついている。その感覚は鋭敏だ。報道被害を受けた人ならなおさらだ。行うべきことは、なんとかその魂に寄り添って、小さな声を聞き、伝えることなのではないか。

権力や肩書き付きの怒声など、放っておいても響き渡る。だが、小さな声は違う。国家や世間へは届かない。その架け橋になることこそが報道の使命なのかもしれない、と。(P.314〜315)

司法は、そして捜査機関はいったい誰のために存在するのか。被害者よりも自らの過ちを隠すことが大切なのか。そして、報道とは何のためにあるのか。「官製報道機関」に成り下がった大手マスコミに国民の知る権利を声高に叫ぶ大義はあるのか。

命の重みを自ら痛感している著者だからこそできた執念の取材と、そこから掴み出した事実には凄みすら感じる。

そして、真犯人はまだ野放しになっているのだ。 

殺人犯はそこにいる: 隠蔽された北関東連続幼女誘拐殺人事件
 
桶川ストーカー殺人事件―遺言 (新潮文庫)

桶川ストーカー殺人事件―遺言 (新潮文庫)

 

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