[ま]ぷるんにー!(พรุ่งนี้)

ぷるんにー(พรุ่งนี้)とはタイ語で「明日」。好きなタイやタイ料理、本や映画、ラーメン・つけ麺、お菓子のレビュー、スターバックスやタリーズなどのカフェネタからモレスキンやほぼ日手帳、アプリ紹介など書いています。明日はきっといいことある。

[ま]体罰はいけない、そんなことはわかってる @kun_maa

体罰はいけない。

そんなことはわかっている。

体罰じゃなくて愛のムチだなんていう言い方もよく使われる。

でも、教員が自分の指導力や自制心のなさを棚に上げて、これは愛のムチだと体罰に走ったところで、その行為が愛なのか怒りなのか自分でも自信を持って「愛」からだと言いきることができるのか。

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愛のムチという言葉を使うとき、それが愛かどうかという判断は非常に難しい。

僕も、数えるほどしかないが子供に手をあげたことはある。

そのときの自分の行為が本当に愛からなのか、頭にきたからなのかどうか確信が持てない。

その判断を、もしも他の誰かがしなければならないのであれば、これは大変なことになってくる。

だから、文科省教育委員会も学校も、やはり愛のムチが必要だと発言することは絶対にできないだろう。

そんな判断も、責任を負うこともできないからだ。

 

大阪市立桜宮高校の体罰事件以降、各方面で「体罰!」「体罰!」という狼煙が上がっているように見える。

あそこでも体罰、ここでも体罰体罰たいばつタイバツ

十把一絡げでなんでも体罰だと糾弾する空気が充満しているように見える。

鬼の首を取ったようにマスコミが取り上げる。

 

こういう事態になる以前から、正座をさせれば体罰、廊下に立たせれば体罰、コツンとやったら体罰、すでに保護者も、子供たちまでも、当然のこととして主張するような風潮になっていた。

親も子供も何かあれば、これは体罰だと騒ぎ立て、教員は処分されることを恐れ、部活動などの、ある種特殊な人間関係が支配する場面を除いた学校現場では、体罰と呼べるものなどほとんどなくなって久しいはずだ。

 

教員には児童生徒に対する懲戒が認められているが、もちろん身体的苦痛を伴う懲戒は体罰に当たり、明確に法律で禁止されている。

 

教員だってバカじゃない。

少しでも保護者から苦情がくれば処罰される、困難な事例に本気で対応していて処罰されていく周囲の事例を嫌というほど見せつけられていれば次第に委縮していく。

学校現場において、問題行動を起こす児童生徒の指導に際し、親や子供からの苦情などを恐れる余り、教員の指導が消極的になっているということが問題視されたほどだ。

 

実際、文科省は平成19年2月5日の文部科学省初等中等教育局長通知において、ややもすると教員らが自らの指導に自信を持てない状況を生み、実際の指導において過度の萎縮を招いているとの指摘もなされていると述べている。

その上で、通知は肉体的苦痛を与える懲戒である体罰を行ってはならない、しかし体罰に当たるかどうかは、当該児童生徒の年齢、健康、心身の発達状況、当該行為が行われた場所的及び時間的環境、懲戒の対応などの諸条件を総合的に考え、個々の事案ごとに判断する必要があるとしている。

 

教員が、最も楽な方法である体罰による服従という道を選択することは言語道断だし、現在報道されているような事例が事実ならば、体罰という言葉ではなく「暴力」がふさわしいと思う。

でも、何でもかんでも十把一絡げにして体罰だと糾弾する今の雰囲気には得体の知れない空恐ろしさを感じている。

 

そんな雰囲気の先に待っているのは、教員の無力感、君子危うきに近寄らず、親身になるのはやめておこうという教員の意識の蔓延ではないだろうか。

 

子どもたちが何をしても見て見ぬふりをする。なにもしない教員がいい先生となり、体を張り親身になって、文字通り体当たりで子どもに接していこうとする教員が悪い先生となる時代。

 

もちろん、安易に体罰を容認するようなお墨付きを与えることは断じて許せるものではない。

問題は、なにを体罰と見なすのかというところにあると思う。

 

先生は怖くて当たり前。

廊下に立たされる、殴られる、正座させられる、体育教官室に呼ばれるのが恐怖だった。

だけど自分が悪いことをしたからしょうがない。

今ではそれも含めていい思い出だ・・・なんて懐古主義に正当性があるとも思わない。

 

でも、体を張って叱ってくれる、時にはげんこつも飛んでくるかもしれない、それでも決して子どもたちを見放さない、そんな人間味がある温かい先生がいる学校のほうが子供にとってもきっと良いと思うのである。

誤解を恐れずに書けば、僕は体罰かどうかを決めるのはその教員と子どもたちとの人間関係にあると思っている。

もちろん怪我をさせるような暴力や執拗な折檻を除いての話だが。

 

ヒステリックに、何でも体罰だと声高に叫び思考停止に陥るのではなく、判断することは困難なことを十分承知の上で、様々な条件を十分に勘案して、総合的に個々の事案ごとに体罰に当たるのかどうかを見定める冷静な社会であってほしい。 

 

僕自身は教員ではない。

でも、事なかれ主義で適当にやっている教員の中で、素行不良でどうしようもない生徒たちを相手に、毎日それこそ体を張って、懸命に生徒のことを考えてギリギリのところで頑張っている教員がたくさんいることを知っている。

彼らのことを思うとき、体罰も厳しい指導も同列に扱うヒステリックな体罰問題の取り上げ方に涙が出そうになることがある。

体罰はいけない?そんなことはわかっている。

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