[ま]映画「アクト・オブ・キリング」/本当の悪とは... @kun_maa
1965年9月30日に起こったインドネシアの軍事クーデターをきっかけとして始まった100万人規模の大虐殺。
この作品はその大虐殺の実行者たちの今にカメラを向けたドキュメンタリー映画だ。
作品の冒頭に次のようなテロップで簡単に説明がある。
1965年インドネシア政府が軍に権力を奪われた
軍の独裁に逆らう者は"共産主義者"として告発された
組合員 小作農 知識人 華僑
西側諸国の支援のもと1年足らずで100万人を超す"共産主義者"が殺された
実行者は"プレマン"と呼ばれるやくざや民兵集団
以来彼らは権力の座に就き敵対者を迫害してきた
殺人者たちは取材に応じ自らの行為を誇らしげに語った
その理由を知るためー殺人を自由に再現し撮影するよう彼らに依頼した
本作はその過程を追い成り行きを記録したものである
虐殺に関わった多くの人物が登場するが中心となっているのはアンワル・コンゴというプレマンとその子分的な存在のヘルマン・コトだ。
アンワルは1000人以上の"共産主義者"を殺害してきたという男。
誰もが恐れる元民兵であり殺人者である。
しかし彼は言う「自分たちのやってきたことが歴史であり未来に記録を残さなければ。物語を伝えていく必要があるのだ」と。
淡々とそして自分たちの行った大量虐殺を誇らしいと信じて疑わない男の顔からは疚しさの欠片も感じられず本気で歴史の偉業を成し遂げたと信じているようだった。
実際に殺害が行われた場所で殺害方法を説明しながら実演してみせるアンワルの表情には当然のごとく何のためらいも罪悪感も見られない。むしろ楽しそうである。
昔を思い出して興奮したのか殺害現場で楽しそうに踊り出すアンワル。
他のメンバーもアンワルが他の殺害方法を説明すると楽しそうにその再現に協力して大笑いしている。
彼らは"共産主義者"から自分たちが国を守ったのだと表向きでは豪語するが実態の話になると誰でも気にくわないやつは"共産主義者"に仕立て上げて殺して金を奪い、金のためならなんでもやったし殺すのを楽しむように殺したのだと平然と話し出す。
大量虐殺の実行部隊として活動を主導し、今なおインドネシア最大級の民兵組織であるパンチャシラ青年団という極右組織がこの作品には常に登場する。オレンジ色の迷彩服が目につく集団。
その規模は想像以上に大きく、撮影当時で300万人のメンバーを擁しており副大統領や大臣、国会議員や州知事などの政治家や金持ちの実業家などがメンバーとなっている。
そのためもあってかパンチャシラ青年団は共産主義者から国を守った英雄という扱いで国営テレビの特番に出て誇らし気にしている。まるで本当のヒーロー気取りだ。
当時のスハルト政権は全ての責任を共産主義者に押し付けて政敵や共産党とは無関係の人々までも粛清するために民兵やプレマンと呼ばれるやくざを利用した。
そして今なお政治家はパンチャシラ青年団とつながりを持つことで自分の利益を守り続けている。
それは実業家も同じで商売敵となる多くの華僑を彼らを利用して殺害し今なお彼らの暴力性をバックに農民から土地を買い叩き、組合潰しに勤しんでいる。
大量虐殺の犠牲となった"共産主義者"のレッテルを貼られた人々の子孫は復讐を恐れて未だに何も言えないのが現状だ。
過去の自分の所業を自ら再現することで次第に心境の変化を見せたアンワルは終盤、冒頭で楽しげにダンスを踊った殺害現場で吐き気が止まらなくなる。
そしてなぜ自分は人殺しをしてきたのかと自問し「殺すしかなかった。"殺すしかない"と俺の良心が命じた」と言い訳のように答える。
僕は当時の時代の空気を知らない人間が後から彼らを無慈悲に裁くのは彼らの行った虐殺と変わらないのではないかと思う。
だから彼らが楽しそうに殺害方法やレイプの様子を語るのを見ても嫌悪感を感じながらそれを裁くことができるのは一体誰なんだろうかってことをずっと考えていた。
時代の流れの中で自己利益を優先して生きるために人殺しを続けた彼らとそれを利用して権力や財産を築き上げた連中と。彼らを裁けるのは一体誰なんだろうかって。
映画を制作することで自分の中の肯定感が揺らいでほんの少しだけ心境の変化を見せたアンワルとその姿から何かを感じ取って映画の完成後にパンチャシラ青年団を脱退したというヘルマン・コト。
彼らはもしかしたら自分で自分を裁きはじめたのかもしれない。たとえそれがどんなに小さな変化で彼らの行った所業とは比べものにならない裁きだとしても。
その一方で過去の所業を顧みることもなく未だに権力と私腹を肥やすことに暴力装置である民兵を利用している政治家や実業家、パンチャシラ青年団の幹部たち。
彼らもいつか自分自身で自らを裁くときが来るのだろうか。
映画に出てきた奴らはもちろん全員が悪者なのだけど彼らを利用した本物の悪はこの作品に登場してこない連中ということをも思い知らされるところがこの作品の凄さ。
作品中でそれらの権力者と一緒に写真に写っていることを自慢していた新聞発行人イブラヒム・シニク。
彼の一言で誰を殺害するかが決まったというこの悪人は悪びれることもなく権力者を紹介していたがそいつらこそが真の悪でありその罪が白日のもとに晒されることはきっとないのだろう。
この映画は虐殺の実行者が自ら過去を再現するという手法が話題になった。
確かにアンワルたち殺人の実行者の抱える狂気には身震いするのだがこの作品を通してあぶり出されてくる本物の悪とその悪を生み出したものに思いを馳せるともう無力感と絶望感しか感じない。
そしてそこまで考えるとスハルト政権を支えたインドネシア最大の援助国である日本人の手も血塗られているに違いない。
いったいなんて作品なんだ。
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[ま]ハーゲンダッツの期間限定「キャラメルヴァニーユ」を喰らう/華やかにバニラ香るキャラメル @kun_maa
みんな大好きハーゲンダッツから期間限定で販売中の「キャラメルヴァニーユ」。
2017年8月1日から発売されていたみたいだけど近頃の僕は酔わないとコンビニに行かないもんで昨日久しぶりのビアバー帰りに買いました。
たくさん飲んだ翌朝も仕事が休みなら走るというルーチンワークをこなしたのでご褒美にハーゲンダッツとかいいじゃないですか。
脱水症状でクラクラするけどそんな体にハゲ注入とか最高かよ。
キャラメルヴァニーユの「ヴァニーユ」ってのはフランス語でバニラを意味する単語「Vanille(ヴァニーユ)」のことなんだよ。知ってた?
もう少しパッケージに寄ってみましょう。
全体の色合いもなんとなーくキャラメル感&バニラ感をまとっています。
とりあえずバニラの花とキャラメルがフタに描いてあるんだけどさ。それは置いといてもバーニラー!とかキャラメルー!って感じだよね。どんな感じ?
フタを開けるといつものフィルムで密閉されいます。
毎回同じだからこのくだりはいらないかもって思うんだけどいつかこのフィルムで密閉式がなくなるときがくるかもしれないからさ。
その時のための記録として残しておかないとね。「おお!2017年のハゲはこういうスタイルだったのか!」とかなるかもしれないじゃん。大げさかっ!妄想か。
フィルムを剥がすと薄いキャラメル色をした本体の登場。
鼻を近づけてもそれほどバニラやキャラメルの香りは感じません。
サクッとすくって口の中へポイっと。
バニラキャラメルアイスクリームの間にキャラメルソースが入り込んでいるダブルキャラメル的なやつです。コクのあるキャラメルの味わいがとっても贅沢。
そこにしっかりと存在を主張してくるバニラのやさしく華やかな風味がたまりません。
キャラメルソースはけっこう濃厚なんだけどバニラの風味が合わさることでキレが良いというか華やかな香りの中にスッと濃厚さが溶け込んでいく感じで後味は意外とスッキリ。シンプルだけど美味しい。逆にシンプルだからこそ誤魔化しが効かない本物のスイーツ感があってとってもいい感じ。
ハーゲンダッツらしいアイスクリームですね。ほんとハゲにハズレなし。
参考までに断面はこんな感じです。
バニラビーンズシードの粒々が多い感じ。キャラメルソースのパンチ力もなかなかのものです。
気になるのはカロリーですが 1個(110ml)当り 267kcal です。
同じミニカップのバニラが 244kcal なので少し高め。それはきっとキャラメルのせい。
華やかにバニラが香る濃厚なキャラメル味を存分に満喫できる「キャラメルヴァニーユ」はスイーツ好きのあなたにおすすめ。
期間限定なので気になる人はお早めに!あー美味しかった。
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[ま]焼きチョコ「BAKE(ベイク)パクチー」を喰らう/あれ?ああ! @kun_maa
森永製菓の焼きチョコ「BAKE(ベイク)」って表面がカリッとしているから夏でもベタベタ溶けなくていいんですよね。カリッとしているけど中はふわっとしているところもポイント高いです。
そんな夏にふさわしい「BAKE(ベイク)」からパクチー味が出ていたなんて知りませんでした。2017年6月20日から全国一斉発売だったようです。
一時期のパクチーブームが過ぎてから普通にパクチーが受け入れられるような感じにはなっていますがそれにしてもパクチー味のチョコレートとかあり得ない。
こりゃキワモノだろうってことでロクに期待もせずとりあえず買ってみました。
キャッチフレーズが「パクチー薫るビターな大人の味わい」ってなんかおかしい。
ちょっとなに言ってるかわかんない。
パクチーごときに「薫る」とかどんだけ媚び売ってんだよって感じ。いや、パクチーは大好きなんですけどね。そこまで持ち上げるかよって思うよね。
袋を開けてトレイを取り出してもパクチー臭は全くしません。
カカオの香りがするだけ。
焦げ茶色の焼きチョコが10個入ってます。見た目はいつものベイクです。
つまんでみるとこんな感じです。カリッとした焼きチョコの表面は手で触っても溶けません。安心のベイククオリティ。
半分に割ってみるとこんな感じ。
とってもわかりにくいと思うけど表面の焼きチョコ部分と中のふわっとしたビターチョコ部分に分かれています。
パクチー粉末はビターチョコ部分に混ぜられているそうです。
さあ期待を込めて口に放り込んでみましょう。
あれ?......あれ?カカオの香りとビターチョコの味しかしないけど。
パクチーどこいった?
ずいぶん控えめなパクチーですねー。恥ずかしがり屋なのかな。
立て続けに2個口に放り込んでみました。
......やっぱりパクチーの薫りなんてわからないや。って思いがっかりした直後。
カカオの香りが引いた後の口の中にほのかに薫るあの懐かしい匂い。
あああああ、これパクチーの残り香だ。
パクチーって生で食べるとそれなりにきつめの香りを放ちますが熱を加えたり他の香りがある素材と一緒に調理するとそれほど目立たなくなりますよね。
このベイクのパクチー味もまさにそんな感じ。
カカオの香りとビターチョコの味わいにかき消されて食べている最中はパクチー感なんて全然ありませんでした(僕の感覚ではね)。もしかしたら期待値が高すぎたのかもしれませんけど。
でも食べ終わってカカオの香りが弱まるとニョキッと顔を出すやさしいパクチーの薫り。安心しました。
このパクチー味のチョコはキワモノと呼べるほど尖っていません。だからといってパクチーらしさが十分に生かされているかというと微妙。
でも食後に残るほのかなパクチーの薫りが控えめでちょっと愛おしい。
そんな感じの立ち位置にいるちょっと不思議なビターチョコ。
甘すぎなくて美味しいです。パクチー嫌いな人でも食べ終わってすぐに水で後味を消せば問題無し...って罰ゲームかよ。
気になるカロリーは1粒(3.8g)当り 22kcal です。10粒だとえっとえっと 220kcal か。
たいしたことないな。気にしないで喰らいましょうぞ。
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[ま]バンコクの休日 @kun_maa
それはもうずいぶん前のこと。1週間ほどのタイひとり旅の最終日。
僕はその日の夜の便で日本に帰国することになっていた。
特にすることもなかったので中華街近くにあるかつての貧乏旅行者の溜まり場7月22日ロータリーにある公園のベンチに座ってタバコを吸っていた。
僕の目の前ではどこか機械的でもありそれでいて全く意味のない動きを繰り返す虚ろな目をしたジャンキーがうろついていてその姿をボーッと眺めていたんだ。
今ではきれいに花なんか植えられちゃってすっかり様変わりしているこの公園もその当時はまだ昔の名残か正体なくぶっ倒れているホームレス数人と朝からラリっているジャンキーがうろついているような場所だった。
周囲には貧乏旅行者たちの定宿として名を馳せたかつてのジュライホテルや楽宮旅社があり薄汚れて崩壊しそうな建物が密集する道端では朝から売春婦が客引きをしている。
どんどん発展してきれいになっていくバンコクの中でもひっそりと取り残されたような観光客には無縁の場所だ。
そんなバンコクの吹き溜まりで僕は彼女に出会った。
ロータリーに向かってくる道のひとつに一見して観光客とわかる小ぎれいな服装をした女性が歩いてきた。それが異様に見えたのは彼女の後からホームレスや胡散臭そうな男どもが5〜6人ぞろぞろと彼女にまとわりつくように歩いていたからだ。
その様子はとても爽やかとは言い難いこのゴミ溜めのような場所の朝の風景の中でも危うさが一際目立つ集団だった。
先頭を歩く女性の手にあるのは遠目に見てもすぐにわかる「◯◯の歩き方」...
日本人だ。
しばらく様子を眺めていたが胡散臭そうな男どもがしきりに彼女に何かを話しかけていた。
こりゃ危ないなと思った僕は目の前で不可思議な動きをしていたジャンキーの横をすり抜けぶっ倒れているホームレスを飛び越えて彼女に向かって急ぎ足で近づいていった。
日本語で「どうしたの?」とたずねる僕に彼女は、トランジットで早朝にバンコクに着いたのだがタクシーを降りた場所からお寺に向かうはずが道に迷い周囲にいた人に道をたずねたらみんなついてきてしまってと困惑した表情で僕に告げた。
その当時すでに多少のタイ語はできるようになっていた僕は彼女にまとわりついてきた5人ほどの男たちに対しタイ語で「彼女は僕の友達だからお前らはいらないんだ!さっさと全員あっちに行け!」と大きめの声で言いながら追いはらい、戸惑う彼女の手をとって安全な方に歩き出した。何か大声で悪態をついている奴もいたが僕は無視して彼女の手をしっかりと握りその場からどんどん歩いていった。
彼女の後をつけてきていた男たちは獲物を逃すまいと喰らい付いてくるほど元気のある奴らではなかったようで、最悪サンダル履きで全力疾走かよって思っていた僕はちょっとホッとした。
奴らが見えなくなったところで立ち止まり「この辺は朝でも意外と危ないから気をつけないと。で?どこのお寺に行きたいの?」と彼女に聞いた。
彼女は関西にある大学の学生だった。スリランカ旅行のための乗り継ぎで今日1日だけバンコク観光をして今夜の便でスリランカに発つという。
本当は黄金仏で有名なワット・トライミットに行くつもりが空港からのタクシーを降りた後反対方向に歩いてきてしまったようだ。
「僕も今夜の便で日本に帰るんだ。よかったらバンコクを案内するよ」と言った僕に彼女はうれしそうに微笑んでうなずいた。
バンコクは初めてだという彼女の行きたいところをひと通り聞いて僕らは一緒に観光名所巡りをすることにした。まずそのまま歩いてワット・トライミットの黄金仏を見学。
その後で中華街の喧騒の中を大通りから路地裏に向かってざっと案内して流しのトゥクトゥクをひろってバンコクの大通りを疾走した。
もっと速くもっと速く!と運転手に頼んで暴走するトゥクトゥクの座席でふたり並んで手すりにつかまり笑い転げながら僕らはバンコクの街を駆け抜けた。
反対車線を逆走した時にはさすがに笑顔が凍りついたけど。
そのまま巨大な涅槃仏とマッサージで有名なワット・ポーへ。
ふたり並んで風通しのよい広間でゆったりとマッサージを受けた時は周りに大勢人がいるのにふたりとも疲れて眠りこけてたっけ。
その後も渡し舟を使って対岸のワット・アルン。そしてきらびやかな王宮と王道の観光ルートを巡りながらお互いに自分のことや普段の生活や今回の旅のことをいつまでも楽しく話し合ってた。
途中でお腹がすけばタイの屋台はもちろん初めてだという彼女のためになるべく安全そうで美味しそうな屋台を選んで買い食いしながら僕らはバンコクの街をおしゃべりしながら動き回った。
夕方が近づき、彼女が行きたがった「◯◯の歩き方」に載っている川沿いのレストランに行ってみたがどうやらだいぶ前に閉店したらしい。
仕方がないので僕が何度か行ったことのある川沿いの小汚ない食堂に連れて行ってあげた。ビールを飲みながらタイ料理を食べて夕暮れのキラキラとした景色のなか僕らは1日を振り返ってあれこれとおしゃべりを続けていた。いつまでも話は尽きなかった。
人見知りの僕にしては珍しいことだ。タイの醸し出す空気が僕の気持ちを和らげていたのかもしれない。
僕らの後ろの席で横に女性を侍らせてビールを飲んでいた軍人が僕に英語で「これから銃を撃ってみないか?」と話しかけてきた。
なんでも近くに軍の射撃練習場があってその男の口利きで銃が撃てるらしかった。
興味はあったが胡散臭い話ではあるし酔っていたので丁重に断った。
残念だなと言った後で「お前たち結婚してるのか?恋人どうしか?」と聞いてきた彼に「友達だよ」と答えると「本当か?お似合いなのにな」と言われてふたりで顔を見合わせて笑った。南国の夕日に照らされた彼女の笑顔がなんだかとても眩しかった。
バンコク中央駅に預けた僕の荷物をピックアップしてからふたりで列車に乗ってドンムアン空港へ向かった。タイ国鉄は遅れるのが常で彼女の出国時間が近づいてきて少し焦ったのだがギリギリで時間に間に合った。
英語の辞書を家に忘れてきてしまったという彼女に僕は自分の辞書を渡した。今日1日だけでたくさん見ることができた素敵な笑顔で「ありがとう」と彼女は言った。
そのまま僕は出国ゲートに消えていく彼女を見送り、自分の飛行機の時間までひとりで不意に訪れた彼女とのバンコクの休日の想い出にひたって過ごした。少しの寂しさと多くの幸福感に僕は包まれていた。
日本に帰って1か月後、可愛らしい便箋にスリランカでの旅の様子とバンコクのお礼が書かれた手紙と僕の辞書が届いた。
手紙からはあの日暴走するトゥクトゥクの中で感じた彼女の髪の匂いとバンコクの喧騒、そして彼女の素敵な笑顔がふわっと広がったような気がした。
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[ま]小説「言の葉の庭」は映画より深い孤悲のものがたり @kun_maa
数ある新海監督作品の中にあってこれはもう別格で大好きな作品「言の葉の庭」。
映画は高校生の孝雄と27歳の謎めいた女性雪野のふたりの視点から描かれた46分の中編作品。お互いに惹かれ合う不器用なふたりの切ない物語だ。映画版のキャッチフレーズは「"愛”よりも昔、"孤悲"のものがたり」というものだった。
映画を観て泣いた僕が小説を読んでさらに泣いた。
小説版の著者はもちろん新海監督その人だ。
映画の「言の葉の庭」では描かれなかったその後の「言の葉の庭」を描いているというだけで僕なんかはすでに胸熱なのだが、映画とは違った視点からの描写とそれぞれの登場人物の過去から現在につながる出来事や心情が事細かに描かれていることがこの作品の真骨頂である。
章ごとに入れ替わる登場人物の視点。
孝雄と雪野のふたりはもちろんのこと、孝雄の母や兄、雪野の元彼、映画では完全なる悪役だった相沢祥子。
それぞれがどんな人生を歩んでどんな人たちから影響を受けて何を思って映画に出てくるシーンでの行動や台詞につながっていったのかが細やかに描かれていく。
小説版も孝雄と雪野を主軸とした物語ではあるのだが、単なるふたりの男女の切ない物語では終わらない奥深さを感じさせるのだ。
それぞれの登場人物が大きな存在感をまとって立体的に迫ってくるとでも言えばいいのだろうか。
映画を見た後で小説を読むと映画だけではわからなかった台詞の背景や心情に納得させられたり驚かされたりの連続である。
そしてそれぞれの視点で描かれている登場人物の誰もが孤独をその内に抱えながら精一杯生きている姿を描いた作品であることがわかる。
そう、どうせ人間なんてみんなちょっとずつおかしいのだから。それでも懸命に生きているのだから。
映画版が孝雄の雪野に対する「"孤悲"のものがたり」だとすると小説版はまさに登場人物すべての"孤悲"の物語だと思う。映画版よりも深い"孤悲"のものがたり。
あとがきで新海監督も次のように書いている。
多かれすくなかれ皆が片想いをしている。書きたかったのは人々のそういう気持ちだと、あらためて思う。孤独に誰かを、なにかを希求する気持ちが、この世界を織り上げているのだ。本書で描きたかったのは、そういうことだ。
なんて僕の琴線に触れてくる作品なのだろうか。
映画を観た人はもちろんのこと、まだ観ていないという人には映画を観てから是非!という感じで超絶おすすめの作品である。
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[ま]CRAFT BEER BABY ! L1day/きみがいない世界はつまらなくてさ @kun_maa
先週は毎日浴びるほど美味しいクラフトビールを飲んでいたからさ。
今じゃ飲まないと手が震えるようになっちゃったんだ。
それでもビールに手を出す気になれないのはやっぱりきみが僕の世界から消えてしまったから。
あの日の最後の一杯を飲んでから僕は一滴もアルコールを口にしていないし食欲も無くなってしまったんだよ。情けないね。
あの日は夕方から突然の豪雨に見舞われた。
きっと浦和の空もきみがこの世界から消えてしまうのが悔しくて泣いているんだろうなって僕は思ったんだ。
前夜に「それじゃ明日は午後4時にここ集合ね!」って勢いで約束をした僕を含めた常連のために開店と同時に混み合っていたのにカウンターの奥の一列をきみは確保してくれていた。
正式に予約をしたわけでもないのにこんなふうにさりげなく僕たちの居場所を用意して待っていてくれる。そんなゆるい優しさがきみの魅力だったし最後の日までそんな迎え方をしてくれて本当にうれしかったんだ。
それしても最終日って言葉の持つ破壊力はすごい。
普段は空いている時間帯から常に満席状態が続いていたから。
いつもこんな感じだったらもしかしてきみがいなくなることもなかったのかな...なんてぼんやりと考えたりしたんだ。
常連さんたちとおしゃべりしながら美味しいビールを飲み続けてまだ外が明るいうちから大騒ぎしちゃってさ。
そんな大騒ぎもきみがいなくなっちゃうことを嘘にしたいような、もしかしたらこうやって楽しく騒ぎ続けていればこの空間と時間がずっと続くんじゃないかってみんなどこかで思っていたんじゃないかな。少なくとも僕はそんなふうに感じていた。
あの日の料理は注文しなくてもまだ食べてなかったものや最後に食べたいと思っていたものが勝手に出てきたよね。ちょっと驚いちゃって、僕の心が読めるんだろうかって割と本気で思ったんだよ。
その場にいたみんなで何回も乾杯したね。すごく楽しかったな。
僕は午後4時集合仲間のひとりから大きなマースジョッキでビールをご馳走になったりして。ずっとガヤガヤと賑やかな店内で時間を忘れるくらい本当に心の底から楽しかった。きみがいなくなっちゃうなんて嘘みたいだ。
あんまり楽しすぎて僕はずっとあの場を離れがたくなっちゃってさ。
自分でもマースジョッキをお代わりしちゃった。そういえばいつもパイントグラスばかりでマースで飲んだのは初めてだった。
新しい知り合いができたり常連さんたちの名前を知ることができたりしたのはとてもうれしかったんだけど飲むほどに時間が過ぎるのが早くなっていって、それが辛くて月並みだけど時間が止まればいいのにってずっと思ってた。
気づくと一人減り二人減り......みんなが名残惜しそうに帰っていくの見ているとだんだん考えたくないことが頭を離れなくなってきてね。
もっと酔っ払ってしまいたかったんだけど僕はどんなに飲んでも完全に酔うことができなくて。
終電もビールもなくなってさえ僕は席を立つことができなくて。
楽しい時も辛くて泣きそうな時も好きな人を連れてきた時もいつも温かく迎えてくれたきみとの時間が一斉によみがえってきて僕は不意に泣きそうになっちゃったんだよ。
ああヤバいな...泣いちゃうなって思ったら僕よりも先に午後4時集合仲間の女性のひとりが泣き出しちゃって。
みんなが彼女に注目していたから僕がこらえきれずに零した涙は誰にも気づかれなかったはず。そりゃおっさんの涙より女性の涙の方が注目に値するよね。
店長と看板娘からそれぞれ最後のあいさつがあって最後まで残った人たちで記念写真を撮って僕らは解散した。
最後は笑顔で別れることができて本当によかった。
とぼとぼと歩く深夜の浦和の街はとても静かだったよ。周囲の風景はまるで目に入ってこなくて僕は他のお客さんとぽつぽつと話しながらきみと過ごした時間のことをずっと考えていた。
もうきみはこの世界に存在しないんだと思っても全然実感がわかなくてさ。それなのになんだかとても虚しくて。
僕は失恋すると好きだった人のことを思い出して胸がギュッて痛むんだ。そんな経験は何度もしてきて慣れているのにきみを失った後の空虚さには不思議と痛みがない。
まるで命の一部を気づく間もなくスッと抜き取られていつの間にか大きな穴があいてしまったような感覚と恒久的な喪失感に包まれてしまって僕は途方に暮れているんだよ。
ここから立ち上がってちゃんと自分の脚で歩き出さなきゃって思いながら惰性で仕事に行き、作り笑いで無為に時間を過ごして何もする気にならない虚ろな自分に戸惑ったままだ。
そして不意に襲いかかる静かだけど深く切ない悲しみに涙をこらえて抗いながらきみの姿や空気やすべての想いがフラッシュバックする中で僕は本当にきみのことが大好きで僕の居場所はきみだったんだなって思う。
いままでありがとう。さよなら僕の CRAFT BEER BABY !
きみのいない世界は本当につまらなくてさ。
いつかこんな世界にも僕は慣れてしまうんだろうか。
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