[ま]ぷるんにー!(พรุ่งนี้)

ぷるんにー(พรุ่งนี้)とはタイ語で「明日」。好きなタイやタイ料理、本や映画、ラーメン・つけ麺、お菓子のレビュー、スターバックスやタリーズなどのカフェネタからモレスキンやほぼ日手帳、アプリ紹介など書いています。明日はきっといいことある。

[ま]うつろう心 @kun_maa

徒然草に「風も吹きあへずうつろふ人の心の花」と詠まれたものを引き合いに出すまでもなく過去から連綿とうつろいゆく人の心。

もちろんうつろうのは他人の心だけではなく自分の心すらうつろうことを止められはしない。風も吹かないのに花のように変わってしまう心は自分の心でもあるのだ。

昨日と今日の自分はやはりどこかが違っていて、今日の自分は明日も同じであることを誰にも約束できない。

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感情が高まればその変化の度合いも高まる。挙げ句の果てに訪れる情緒不安定な自分に飲み込まれて自分を持て余し途方にくれる。

他人の心が変わってしまうのを食い止めようと足掻いて苦しむのも人の業ならば自分の心の変化に戸惑いながら変わってしまった自分を許すことができずに闇に落ちていくのも業。

 

350gの野菜を毎日喰らい運動と瞑想を繰り返したとしても、どんなに心を鍛錬したとしても、他人の心も自分の心も同じ場所に繋ぎとめることが不可能であるならば、そんなことは端からあきらめて変わりゆくのが人の心と泰然自若としていられればどんなに楽なことだろう。

だけどそうはいかないから僕らはいつも苦しむ。

思うままには生きられないんだよってさみしそうに呟いて傷ついていたあの人は虚構の世界に浸って自分を変えようとしていた。そっちはどうだい?こっちにおいでよっていつまでも終わらないかくれんぼ。

 

変わりゆく心にすがりつくのも人ならば変わらない心を変えようと必死になって努力するのも人。嫌いな自分を変えたいと懸命に努力する人を笑うつもりはないが変わるものは放っておいても変わるし変わらないものを変えるのはきっと努力じゃない。

そこは悟れと誰かが言うが言うは易し行うは難し。

思うままには生きられないのだとさみしく笑ってみたとて何も変わらないかもしれないし、すでに何かが変わり始めているのかもしれない夕暮れ。

そんなことを無責任に垂れ流している僕は僕で心のままに刹那的に生きようとして恒久的な葛藤と変わりたくはないものを大切に隠し持ちながら生きていく。

 

僕が唱える「さみしいさみしいさみしい」「好きだ好きだ好きだ」「逢いたい逢いたい逢いたい」という念仏合唱がごときつぶやきも誰かの心を繋ぎ止めようとする勝ち目のない闘いへの病的で絶望的な呪文なのかもしれない。

うつろいやすき心の中でこれだけはつなぎとめておきたいんだと叫びながらそれでもなお変わりゆく自分に抗い続ける。

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[ま]反吐が出る @kun_maa

自分の大切な人やものを守りたくて実際に守っているつもりでその多くを尽く壊してきた過去。反省しない僕は未だに自分勝手に多くの人を傷つけて誰も幸せにできない。

きっと感情のどこかが決定的に壊れているんだと思う。

ダメにしてしまった人間関係の中の友人や恋人たちの亡霊に取り憑かれてその怨嗟の声が僕の心を狂おしく搔きむしる。

アルコールに逃避した結果の泥酔がもたらすグルグルと回る視界に吐きそうになる。

酔いが生み出す歪んだ世界が自分の思考回路を揺すぶりながら「お前なんかだめだ」ってずっと頭を殴られている感じ。感情が擦れるヒリヒリとした感覚が運んでくる快感と嫌悪。

感情が加速しながら鈍磨していくような摩擦感に戸惑いながらの帰り道、僕は思ったんだ。

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お前なんて誰も救えないしこれからも人を傷つけるだけの人生なんだよって。

足元がおぼつかず、ふらふらと道の中央に歩き出して車に轢かれそうになる。

猛烈なクラクションとドライバーの罵声。

 

もう誰も大切な人を傷つけたくないんだよ、何も壊したくないんだよって少し涙ぐみながら本気で思った。

そしてその気持ちの裏側にある相変わらず自分のことしか考えていない身勝手さに反吐が出る。

僕はどうしちまったんだ。

反省しないと誓っていたのに。わがままで刹那的に生きていこうと決めていたのに。

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[ま]逢いたさの昇華とか逃避とか @kun_maa

誰かに惚れて大好きだからといって常に連絡が取れるわけでもないですし、いつも一緒にいたいと思ってもそう簡単にはいきません。

それぞれの生活や仕事やしがらみや。

そんなもの普段は全く気にしていないのですが恋するとそんな諸々の障害が圧倒的な存在感を誇示してきます。「誇示してきます」ってのは変ですね。それらは最初から存在していたわけだから。

自分の想いのままに行動することの障害に変化するってのが正しいのかな。

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だから逢いたくても叶わない日々が続いたり、やっと逢えても別れた直後からより一層の逢いたさに囚われて悶々としたりといったどうにも悩ましい事態に陥いるんですね。そりゃもう毎日のように。

 

ポジティブな人ならそれも恋愛の醍醐味じゃね?とか宇多田ヒカルなら逢えない時間が2人の愛を育てるとか歌っちゃうんだろうけど、ネガティヴな僕はさみしさだけが突出して切なくなって「さみしいさみしいさみしい」の念仏合唱。

LINEでさみしさを送りつけたりしてダメじゃん。

 

そこで今日も一日中さみしい念仏唱えてiPhoneを握りしめているよりも少しは健全に過ごそうと朝からしっかり走りました。逢いたい…の最後の「…」くらいは昇華したような気がします。

走り終わったらちょうど彼女からLINEきたしー。

 

そしてこのあとはクラフトビールに逃避です。

知り合いに都内のビアバーの方を紹介してくれると言われて渡りに船とお出かけする途中。

けやき広場のビール祭りへ。

今日は暑いのでこんな格好で出かけます。ビーサンにタイパンツって真夏かっ!

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ビールに逃避したところで逢いたい気持ちが消えるはずも無く、永久的とも思える欠落感を抱えながらやっぱり「逢いたいな」って思いながらビールを飲み干すんだろうな。

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[ま]愛しさと切なさの間で @kun_maa

なかなかきみに逢えなくて......久しぶりに見たきみは少しやつれたようでそれでも笑顔は変わらずにいてくれて。

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バーのカウンターで横に並んで座り、お互いに気持ちの壁なんて全く感じさせずに遠慮なくバカな話をして盛り上がる。ふたりでいるといくらでも話すことが尽きないっていいよな。

傷ついたきみが見せる笑顔がなんだか眩しくて、僕は無駄におでこを突いたり笑いながら悪態をついたりしたんだ。無駄口をたたいているようでいてふたりの間にはどうしようもなく心が落ち着ける信頼感と安心感が広がっていて、それは言葉尻を捉えただけでは誰にもわからないただふたりだけで共有している感覚。

 

僕はすっかり飲み過ぎちまって、帰り道できみをぎゅっと抱きしめキスをした。きみの体が微かに震えているのがわかった。

通り過ぎる人たちが僕らを見て何か茶化しながら遠ざかって行ったけど僕にはそんなことはどうでもよかった。ただ1分1秒でもきみと一緒にいたかったんだ。

きみの心に寄り添いたかったんだ。

 

帰り際に見送られるのが嫌いなきみに無理を言って駅のホームで見送った。電車がホームに滑り込んでくるまで僕たちは抱き合ってキスをした。

そしてきみは最終電車の扉の中に吸い込まれていく。その瞬間に胸が張り裂けそうに切なくなって、きみのことを離したくなくなって大声できみの名を叫んだ。

 

そこで目が覚めて現実の世界にひとりで転がっていた僕は少し泣いていた。どうやらうたた寝をしてしまったようだ。僕の手にはきみとのやりとりが残されたスマホが握られたままだった。

目が覚めてもまだ夢の続きのような気がして、ベッドの上でひとり頭が混乱しながら僕はやっぱりきみのことが大好きで、毎日でも逢っていたいんだって思いながらきみの唇の感触と体の温もりを思い出している。

きみのことを想うとまた涙が溢れ出しそうになって、さみしいよってつぶやいた。 

ただそれだけで、恋しくて。

ただそれだけで、恋しくて。

 
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[ま]体感時間 @kun_maa

歳を重ねるほど時間が経つのが早く感じる。本当にもう早っ!!!!ってくらい早く感じるのだ。まだそうでもない人はいずれわかる時が来るから安心していいよ。

僕なんてクリスマスがほんの数日前のように感じるくらい。別にクリスマスに楽しい思い出があるわけでもないんだけどさ。

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年齢とともに体感時間が変化することについては幾つかの説がある。きっと多くの人に共通の感覚で、それを不思議に感じた頭のいい人たちがあれこれ考えてきたんだと思うんだ。

例えば、記憶量が体感時間に関係するという説。

子供は大人に比べて知らないことが多くて必然的に新しい経験をする機会が多いから、その経験を通して獲得する記憶量も多くなる。逆に大人は次第に仕事も日常生活も同じ経験の繰り返しが多くなり、それに伴って獲得する新しい記憶量も少なくなっていく。

記憶量が多くて密度が高い時間の方が、そうではない時間と比較して相対的に時間がゆっくりと過ぎるように感じるというのだ。だから獲得する記憶量が多い子供の時間の方が大人の時間よりも長く感じられるってわけ。大人の時間って表現はちょっと違うことを想像してしまうけど。ああ僕だけか。

 

体長が体感時間に影響しているという説もある。

一般的に体長が短く小さい動物は動きが素早く、体長が長くて大きな動物は動きが緩慢になる。その結果、同じ物理的な時間の長さの中でより多くの行動ができる小さな動物の方が時間がゆっくりと過ぎるように感じるらしい。だから体長の小さな子供の方が大人よりも時間が長く感じられるというのだ。 

ゾウの時間 ネズミの時間―サイズの生物学 (中公新書)

ゾウの時間 ネズミの時間―サイズの生物学 (中公新書)

 

まあこちらの説については、低身長の大人と高身長の大人の間では年齢が同じなら別に時間感覚に違いがないよなって思うので個人的にはどうなんだろうとは思うけど。

象とネズミくらいの違いがあれば別なんだろうけどさ。

 

そんな体感時間に関して具体的に数字で示そうとしたのが、19世紀フランスの哲学者、ポール・ジャネ。彼が発案した「ジャネーの法則」というものが有名だ。

全く話は逸れるが僕のMacジャネーの法則と入力すると「じゃねーの法則」と変換されてそれはそれでちょっとおもしろそうな法則の予感がしてくる。

 

じゃねーの法則ジャネーの法則ってのはざっくり簡単にいうと、ある時期における体感時間は年齢に反比例するというものだ。

ちょっと自信がなかったので Wikipedia で確認したら次のように書いてあった。

ジャネーの法則(ジャネーのほうそく)は、19世紀フランス哲学者ポール・ジャネが発案し、甥の心理学者ピエール・ジャネの著書[1]において紹介された[2]法則。主観的に記憶される年月の長さは年少者にはより長く、年長者にはより短く評価されるという現象を心理学的に説明した。

簡単に言えば生涯のある時期における時間心理的長さは年齢の逆数比例する(年齢に反比例する)。

例えば、50歳の人間にとって1年の長さは人生の50分の1ほどであるが、5歳の人間にとっては5分の1に相当する。よって、50歳の人間にとっての10年間は5歳の人間にとっての1年間に当たり、5歳の人間の1日が50歳の人間の10日に当たることになる。

そう、これによれば僕にとっての10日間は体感的には5歳の子供の1日に当たるということになる。そりゃ毎日が高速で過ぎ去っていくわけだ。

さらにジャネによれば、体感時間の観点からは人生の折り返し地点は16歳から20歳だという。あれ?僕の人生とっくの昔に折り返した上に使い切ってんじゃないか......

 

そうとわかればすでに儲けもんのおまけのような人生なのだから、やっぱり自分の好きなように生きた方がいいじゃんって思う。

結局そうなる。結論は同じでブレがないところがいいんジャネ。

それにしてもいつの間に折り返して終わってたんだよ僕の人生まったくもう。どうりで光陰矢の如しだよ。

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[ま]驚くことにもう51歳なんだぜ/人間なんてそう簡単には変わらないから @kun_maa

「気がつけば半世紀も生きてしまいました」と書いた昨年の誕生日エントリ。

さらに1年歳を重ねて今日で51歳になりました。

相変わらず自分でも信じられないくらい人生に重みがありません。ペラッペラです。

自分が子供の頃の50代の人に対するイメージなんて、もう完全にお爺さんって感じだったのですが、幸いなことに腰痛はあるけど腰はまだ曲がっていませんしまだまだ現役です。何の話だ。去年も同じ話書いとる......成長してねえ。

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人生に目標を持つことをやめて浮き草のように生きているので、51歳にもなって何かを成し遂げたかというと自慢するようなことは何もありません。

若い頃はそんなこともあったかもしれないけれど今更そんな昔のことはどうでもいいし、そもそも人生なんてものに意味があると考えるから窮屈で苦しくなるんじゃね?って思っています。

人生にもし意味があるとしたら何事かを為さねばならぬとかそんなことじゃなくて毎日毎日を可能なかぎり心穏やかに、好きな人と会い、食べたいものを食べて、寝る前にああ今日も楽しかったなあって思えることにあるんじゃないでしょうか。そんなある意味わがままな生き方を心がけています。

長期的なご褒美よりも目の前の快楽に身をまかせて耽溺したい。マシュマロ・テストを受けたら負け組となる素質しか感じられないダメな人でございます。

 

自分がそんなだからといって別に人生に長期的な高い目標をもって頑張っている人を否定する気も、そういう人の脚を引っ張る気もありません。ただ僕には無理だしやりたくないってだけ。もっと言うと魅力を感じない。十分disってますね。気を悪くしたらゴメンなさい。誰に謝ってんだ。 

目標や計画を持たない人生というのは自堕落でどうしようもないものになるのではないかと思うかもしれませんが、僕だって自分が一番かわいいからそれほどひどいことにはならないものです。

こんなんでもとりあえず51歳まで生きてこられたしさ。

人間なんて目標や計画はなくても、結局は自分にとってその時々での最適解を選んでいるんですよ。僕は毎日やりたいと思うことをやり、やりたくないことは可能な限りやらず、好きな人には全力で好きだと言い、好きなものは全力で好きだと思う。そういう心がけの中での最適解。

 

まあ未だにうつ病の治療中だし、決して毎日楽しいことばかりではないのも事実。ドーンと落ち込む日や「さみしいさみしいさみしい」と念仏のように唱える情緒不安定な日だってたくさんあります。

それに「やりたいことだけやろうと心がけてる」って言ったって、実際はやりたくないことをやらなければならない場面もたくさんありますって。だってにんげんだもの

そりゃしょーがないこともあります。

それでもやっぱり僕はこんなふうに考えてこれからも生きていくんだろうと思っています。

この下のは昨年の自分のエントリからの引用。考え方は全然変わってないなあ。いやーブレない男。

そんなことを考えながら、割と自分勝手に愛のままにわがままに君だけを傷つけないなんてこともなく多くの人を傷つけて生きていますが、明日の自分がどう思って生きていくのかは自分でもわかりません。

今好きなことが明日も明後日も好きとは限らないし、急に以前の自分に戻って計画的に生きることを望むかもしれません。

それでも、どんな方向に向かうにしても「今やりたい」と本気で思っていることをやり、愛している人には「愛している」と言い、好きな人や物にも「好きだ」って気持ちを全力で伝えたりぶつけたりしたいと思っています。

 

あと何回「愛してる」って言えるんだろうか。

あと何回「好きな人」や「好きなもの」に出会えるのだろうか。

あと何回「心が震えるような感動」を味わうことができるのだろうか。

あと何回「幸せだ」って思えるのだろうか。 

 

そして今はほら、僕大好きな人がいて恋をしているので頭の中がお花畑。

とにかく心の底からその人のことを大切にしたいし「愛してる」って何回でも言いたいわけです。

これじゃただのエロオヤジか...いや至って真面目。

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